徹底批判『国民の歴史』

「教科書に真実と自由を」連絡会編 / 大月書店 / 00/05/19

★★★

ちょっと批判の書としてはまずいかも

 西尾幹二の『国民の歴史』を批判する本。23人の著者がそれぞれ短い文章を寄稿している。私は、この『国民の歴史』は買ったのだが、最初の数章を読んで投げ出した。主に、時間がもったいないと思ったからである。

 さて、『国民の歴史』が悪い形でのナショナリズムを主張する本であり、メインストリームの歴史学からの乖離が甚だしい本であり、「歴史哲学」みたいな分野でもあまりまともに論じる対象の思想ではない、危険な本であるという、この「教科書に真実と自由を」連絡会の全般的な主張には賛成するのだが、本書が『国民の歴史』を読んで感動してしまった人を翻意させるだけの説得力を持っているかとなると、残念ながらそうではないと思う。「やっぱり西尾幹ニの言うことは正しい。自虐史観のやつらと閉鎖的な歴史学者はどうしようもない」と思う人が多いのではないだろうか。

 その理由の1つは、これが単一の意思を持って書かれておらず、バラバラの立場から、統一のとれていない批判が行われている本だということにある。もちろん、この多様性が正しいあり方なのだ、と反論するのだろうけれども、西尾幹ニの『国民の歴史』を初めとする「自由主義史観」の魅力は、そういう多様性の中から単一の意思を取り出そうという姿勢にあるのだ。したがって、批判をする人は、単一の意思で立ち向かうか、あるいは多様性の魅力を提示しなくてはならない。そのどちらにもプレゼンテーションの工夫が必要である。

 多様性について言えば。本書の寄稿者たちの間には、いくつか相容れない観念がある。たとえば、西尾幹ニが批判する「閉鎖的な歴史学」の現状をどう把握し、評価するかという点で、寄稿者たちの間に微妙なずれがある。ある人は、大文字の歴史がたしかに存在しており、西尾は勉強不足だからそれを理解していないと言うが、ある人は、大文字の歴史そのものが古いと述べる。ある人は、歴史認識はちゃんとした歴史研究を行えば収束すると述べるのに対し(可能的な単一の意思の肯定)、ある人は、むしろ歴史認識の相対性に立脚して論を展開しているように見える(絶対的な単一の意思の否定)。

 こういう、何というか「インパクトのない」本を作ってしまうこの種の人々たちには、ある種のシンパシーを感じるのだけれども(少なくとも「と学会」的アプローチよりははるかに良心的だが)、もうちょっと何とかならないものかと思う。最近では『南京大虐殺否定論の13のウソ』がかなりうまく作られていたという印象を受けたのだが、あれとの違いが具体的にどこにあるのかと問われると難しいところだ。

 まあこの本は出てしまったのだから仕方がないとして、私が望むのは次のような本だ。とりあえず、『国民の歴史』の何が問題であり、それに対してどのような立場から批判すべきかということを寄稿者たちで話し合い、その結果を受けて、代表者がイントロダクションを書く。その内容は、おそらく、「歴史認識とはどういうものか」、「テキストクリティークとはどういうものか」、「西尾的な日本/国民/国家観のルーツはどこにあり、現在までにそれが歴史学の領域の中でどのように変化してきたか」といったものになるだろう。異論がある場合にはそれらを中立的な立場から併記する。健全な論争が行われているという印象を与えることが重要である。その後、各論として、個々の時代の記述を批判し、異論がある場合にはそれらを併記しながら、現在の知見を紹介していく。本書の第II部「各論」に収められている文章の中には面白いものがいくつもあるのだが、それぞれ異なる著者がコーディネートされないまま書いているため、「総論」に収められるべき問題点への(整理されていない)言及が多すぎてもったいないのだ。

 私は本書の編者・著者らのような人々の活動を高く評価するけれども、もしいまの日本において彼らの意見が西尾幹ニなどの意見に押されているのであれば、その責任は押されている本人たちにあると思う。西尾幹ニなどの意見に感動してしまう人々が、なぜそういう風になるのか、どこに魅力があるのかということを冷静に分析し、戦略的な反撃を加えなくてはならない。単に「それは危険なナショナリズムだ」と言っているだけでは、西尾幹ニのファンの先入観を強化するだけなのである。大衆迎合? まあそうも言えるかもしれないが、学術の世界で得られた知見が、うまく世間に流れていっていないという風に反省する方が生産的だと思う。

2000/6/18

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