科学の終焉

The End of Science

ジョン・ホーガン / 徳間書店 / 97/10/31

★★★

下品で的外れだが、面白いことはたしかだ

 著者は"Scientific American"のコラムニスト。「科学の終焉」という概念について、いろいろな分野の科学者にインタビューを行っている。監修者の筒井康隆は「文芸批評の方法」と呼んでいるが、どちらかといえばゴシップ・コラムニストと呼ぶのがふさわしい。この本の著者の態度を一言で表せば「下品」である。ホーキンスやファイヤーアーベンドの身体的障碍を不必要なまでに強調し、その他のすべての科学者の精神的障碍についてはもっと露骨に揶揄している。「科学的知識の限界」をテーマにした研究集会につどう科学者たちの様子を描いた第9章「リミトロジーの終焉」は非常によく書けていて、イギリス製のユーモア小説を読んでいるみたいな感触があるのだけれども、これが最良の部分だろう。

 この「科学の終焉」という概念を、著者はいくつかの意味合いに使っている。ここの部分がうまく整理されていないことが、この本の根本的な問題の1つである。

  1. 社会が科学研究に金を出さなくなる。アメリカの下院が1993年にSSCの予算を切ったために、素粒子物理学の未来が不透明になったことはその一例。
  2. 究極的な理論はすでに出尽くしてしまった。超ひも理論やダーウィンの自然選択など。
  3. 収穫逓減の原理に従って、科学的発見の数が減りつつある。これは本当にそうなのかは不明。
  4. 著者が「皮肉の科学(ironic science)」と呼ぶ、文芸評論的な科学が主流となりつつある。確立したパラダイムの中でのパズル解きを偉いもののように見せかけるテクニック、みたいな感じか?
  5. 究極の真理/答えには到達可能なのか? 可能だとしたら、その瞬間に科学の責務は終わってしまうという実存的不安。

 それぞれの命題は、相互に関連しているけれども、本当はそれぞれ異なる現象だし、その意味合いも異なる。しかし著者は意図してか、このあたりを曖昧にして、いろんな科学の分野で起こっている事柄を「科学の終焉」という広い言葉の中で処理してしまっている。それがまた、間違った人に間違ったことを間違ったやり方で聞くという過ちの原因ともなっている。

 この本に登場する科学者たちは錚々たる顔ぶれで、これらの人々がどんなひとなのかを知るというゴシップ・コラム的な意味合いでは貴重な資料である。しかしそれも、根性の悪いジャーナリスト出してくる的外れな質問にいやいやながら答えた言葉の、都合のいい部分だけを抽出されてしまったという事情を割り引いて受け止める必要がある。また、多くの人はすでに科学者として一丁あがりになっちゃっている人々なので、エキセントリックに振る舞うことが許されているからそのように振る舞うに決まっている。

 たとえば、ポパーとファイヤアーベンドとクーンがその著書から受ける印象とはずいぶん違った人々だからといって、哲学が終わったと言うわけにはいかない。それは、彼らの人となりとその思想の意味合いは無関係だという理由だけからでなく、彼らに哲学が終わったかどうかを判断する特権的な資格があるわけではないという理由からでもある。超ひも理論の大家は、超ひも理論の分野で収穫逓減が起こっているかどうかを判断する資格はあるだろうけれども、究極の答えについて特権的な資格を持っているわけではない。ドーキンスやウィルソンやグールドが、自然選択のことをどう思っているかはそれなりに貴重な情報だけれども、それはそれぞれの意見に過ぎない、などなど。

 「究極の答え」についてもっと本腰を入れて取り組む。収穫逓減が本当に起こっているのかどうかを検証する。科学研究に割り振られるリソースの削減が実際にどのようなインパクトを与えているのかを報告する。「皮肉の科学」と目されるものが、実際にどのように皮肉なのかを示す。などなど、この本がもっとまともな本になるきっかけはいくつか考えられる。しかし、偉大な科学者たちのインタビューという路線を崩さないのであれば、いっそのこと科学者たちの奇癖のカタログ本にするか、あるいは、それぞれの分野における、「究極的な理論が出尽くしてしまった」という観念の受け止められ方の証人として扱うようにするべきだった。もちろん偉大な科学者の中には、そういう証人には向いていない人が多いだろう。だからむしろ重鎮ではなく、各分野でいま生産性をあげている人を証人として喚問すべきだったのだ。個人的に突き当たった壁を、その分野の壁と混同しなくてすむように。

1998/5/16

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