からごころ

日本精神の逆説

長谷川三千子 / 中央公論社 / 86/06/10

★★★★★

古い本だが面白い

 1986年初版発行のエッセイ/文芸評論集。このところ著者の長谷川三千子(『正義の喪失』、また『憲法改正』も)に関心を抱いているので遡って読んでみた。さすがに内容が古い部分もあるのだが、楽しく読むことができた。以下、5編の収録作の簡単な内容。

 「からごころ」は、本居宣長を起点とし、漢字を借用して吸収してしまった日本語のあり方に「からごころ」と「やまとごころ」の奇妙な関係を見るという日本人論。「からごころ」は、自国文化に固執せず他国の文化を積極的に吸収しながらも、自らのそのような軽薄なあり方から目をそむけつづける態度である。この態度が明治以降の「文明開化」や「近代化」を可能にしたのであると論じ、この「からごころ」のあり方を直視し、「やまとごころ」を取り戻すことが必要であると主張する。この「やまとごころ」がどういうものなのかということは論じられていないが、そのことそのものが、われわれが「からごころ」に捕われていることの現れの1つである、というタイプの論考。

 「やまとごころと『細雪』」は、『細雪』の文芸評論。『細雪』のスタイルに、西洋型ではない日本型のリアリティのあり方を見るというタイプの話で、登場人物の行動が主体的というよりは関係性/社会性から発しているところに「やまとごころ」を見て取る。

 「『黒い雨』 - 蒙古高句麗の雲」は、『黒い雨』の文芸評論。『黒い雨』は、戦後日本から失われた「敵」のイメージを取り戻そうとしていると論じる。つまり戦後日本の大東亜戦争観批判である。

 「大東亜戦争「否定」論」は、戦後世代として、それ以前の世代の(戦後の)大東亜戦争観を批判する。大東亜戦争が、西洋諸国の植民地帝国主義に対する抵抗であったということを認識しなければならないと述べる。

 「「国際社会」の国際化のために」は、あの頃流行していた、また意味不明であるとして批判されることの多かった「国際化」という言葉についての論考。英語のinternationalizationが、西洋諸国の間での利害調整のことを意味することを指摘し、日本語の「国際化」はこれとは異なる新しい、西洋を相対化する言葉なのだから、もっと自信を持って使おうよという話。

 私はこのタイプの主張の歴史的変遷に詳しくないので、推測も混じえて述べるとすれば、著者の長谷川三千子は、日中戦争/太平洋戦争に直接の責任を負っていない「戦後世代」の文芸評論家として、現在の自由主義史観に連なる反西洋的な姿勢を打ち出した最初のグループに入ると思われる。本書の内容は、本書以前にもあったけれども、戦後世代の人間が面白い挑戦的な文章で主張しなおしたという点に意味があったのだろう。

 さて、2000年のいまになって総括するとすると。まず「からごころ」と「やまとごころ」の問題については、依然として「やまとごころ」は再発見されていないように思われる。こういうものを『細雪』に求めてみても駄目なんであって、国際社会のあり方が「からごころ」を相対化することはあるとしても(グローバリズムに対する批判など)。個人的には、再発見または回帰すべき「やまとごころ」なんて存在しないと腹を括るべきだろうと思っている。

 戦後日本の大東亜戦争観批判は、1990年代に入って勢いを伸ばしたように思われる。この流れは、上記のグローバリズム批判の流れに乗って、今後も拡大していくだろう。日本はうまくやれば、21世紀中に大東亜文化圏構想に再着手できるかもしれないが、たぶんうまくやれないんだろう。

 「国際化」については、いま流行っている「グローバリゼーション」という言葉は、まさに日本で流行っていた「国際化」に対応する概念だと思う(著者はまた別の意味を見ているけれども、それは屁理屈の部分)。後づけでは、昨今のグローバリゼーションの流れを、日本が先取りしていたと論じることも可能だろう。皮肉なことに、「国際化」が「グローバリゼーション」と名前を変えた時点で、「国際化/グローバリゼーション」批判はやりやすくなっている。思うに、「国際化」が唱えられていた時点では、「国際化」というネーミングそのものに対する批判はあっても、「国際化」の概念そのものに対する批判は難しかった(本書はその試みの1つ)。「国際化」が、日本の西洋先進諸国への(実質的な)仲間入りでという日本固有の課題と受け止められたのに対し、「グローバリゼーション」は、日本以外の国もそれに仲間入りするという話であり、このことが含んでいる問題点に気づいた人々の中には急速に立場を変えた者がいるんではないかと思う。

2000/7/8

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