ひめゆり忠臣蔵

吉田司 / 太田出版 / 00/07/19

★★★★★

うーむやはり凄い

 1993年に初版が出た後、1994年に抗議を受けて削除改訂版が出た本が、この2000年に増補新版として出たもの。2000年7月に開催される沖縄サミットを当て込んでの新版と思われ、サミットのテーマ・ソングを歌っている安室奈美恵の因縁話などが追加されている。

 『沖縄の自己検証』がリアリストからの、また『誰も書かなかった沖縄』が新しい反動的ナショナリズム(自由主義史観)からの、メインストリームの「情念的沖縄論」に対する批判だとすれば、本書は進歩的リベラルによる批判の最良の形だと言えよう。なぜ最良になっているかというと、これが絶滅寸前のハチャメチャ新左翼の生き残りであるからで、「古い」という印象はあるにせよ、そのパワーは本物だ。浪花節は強い、というだけの話の気もするが。

 タイトルにあるように、大日本帝国の軍国主義を蒸留したような存在である「ひめゆり部隊」が、戦後の平和主義の中で神聖化されてしまったメカニズムを、沖縄の近・現代史を通して解明していくという本。このような「ねじれ」に関する問題意識は『敗戦後論』『日本の無思想』の加藤典洋と共通するところがあるが、もちろん結論とか主張はまるっきり違う。こちらの方が筋が通っているだけわかりやすいが、筋が通っていないから何を言いたいのかよくわからない加藤典洋の方が、何か深遠なことを言っているような気がしてしまうのは、単なる勘違いなんだろうな。

 とはいえ、個人的には、この「ひめゆり部隊」については、すでに日本人の間では関心が薄れているんではないかと疑っている。「最近の若い者は過去の歴史を知らない!」と怒る人もいると思うが、たとえば「ひめゆり部隊」の話を聞いて「バッカじゃないの」という感想を素直に抱く人は少なくないんではないだろうか。違っているんだったらゴメンなさいだが(別のゴメンなさいについては、『ぼくたちが石原都知事を買えない四つの理由』の項も参照)、なんというか同時代人の一人として、私は若い同胞日本人の賢さにそこそこの信頼は寄せているのだ。勘違いでないことを祈っているが、東京で大地震が起こっても大きなスケールでの外国人虐殺は起こらないだろうし、「ひめゆり部隊」なんて作ろうものなら女学生たちは学校から逃げ出すだろう。その代わり大地震が起こったら日本人のチーマーたちが掠奪をし、女学生は抗戦のステップをスキップして「ハーニー」になっちゃうという可能性があるけれども。

 つまり、これもまた勘違いかもしれないのだが、著者が「ひめゆり部隊」の神聖化にこだわっていること自体が、少なくともヤマトンチューに限れば、いくぶん時代遅れなのかもしれないのである(沖縄人に限ればたぶん時代遅れではないんだろうけれども)。著者が批判するような戦後の平和主義の欺瞞を摘出し総括することなく、新しいフェーズに入ってしまった(私の認識では「新人類」以降)ことは、将来に禍根を残すかもしれないが、新人類以降の人間に言わせれば、戦後の平和主義の欺瞞を総括しなかったことの責任は、新人類以降の人間にはなく、普通に冷静に考えれば「ひめゆり部隊」も「特攻隊」も無駄死にだという素直な受け取り方をしているだけ、ということになると思う。ただし、著者の年代の人々がこれを総括しきれなかったことが、1990年代の新しい反動的ナショナリズム(自由主義史観)に格好の攻撃目標を与えてしまった、ということはある。自由主義史観のファンの人は、戦後の平和主義(自虐史観)を彼らなりのやり方で批判することが、自分の立場を補強する材料になっていると思っていると思うが、本書のような進歩的リベラルからもこういう形での批判がありうるということを知っていただきたい。つまり、ヘナヘナ進歩主義がヘナヘナであること自体が、ナショナリズムの正当性を担保するわけではない、ということだ。

 とはいいながらも、やっぱり本書は現代の読者にとっては濃すぎるだろうな。ここから浪花節をうまく外している現代的な論者はいないものだろうか。

2000/7/21

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