「少年法」を問い直す

黒沼克史 / 講談社 / 00/07/20

★★★

立脚点にあまり賛成できず

 最近、にわかに話題として取り上げられることが多くなった少年法についての、ジャーナリストの立場からの解説と提言。著者は名作『援助交際』を書いた人で、そこそこ期待しながら読んだのだが、少年犯罪のとりわけ被害者の側の取材経験があるので(『少年にわが子を殺された親たち』(未読)、そっちの側への偏りがあった。

 少年法成立の事情を探っていくと、またもや敗戦とそれに伴うアメリカによる改革の残した負の遺産が見えてくる。具体的には、少年犯罪者を保護の対象とする「国親思想」を日本の事情を無視して適用し、例によってアメリカ本国ではいろいろと事態が変わったのに、日本が戦後体制を「保守」しているという状況である。著者は、こうした事情から生じた矛盾を指摘し、またこの法律の実地での運用のされ方を踏まえて、少年法の改正を積極的に議論するべきであると述べる。具体的な提言は穏当なもので、対審構造の導入、犯罪を起こした少年のグループ分け(保護主義で対応すべき非犯罪少年、保護主義で対応すべき犯罪少年、刑罰主義で対応すべき犯罪少年の3グループを提唱している)を行い、それに応じた処理をすることなどだ。

 私はこれらの提案にそれほど違和感を感じないけれども、議論のあちこちに「被害者」の話が出てくるのがしんどかった。少年犯罪の問題と犯罪被害者の問題は、本質的には関係がない(たとえば「犯罪被害者保護関連三法」の下で十分な保護がないという間接的な関係はあるにしても)。少年犯罪とそれに対処するための少年法は、国家のリソースである少年をどのように守っていくかという観点から考えるべきだと思う。その文脈で、(可能な手段を使って)量刑のオープン化を目指し、必要ならば(深刻な犯罪については)厳罰化を進めるべきである。

 私は少年でなくなってからずいぶんと経つけれども、このところ続発している「理由のない」凶悪犯罪を犯す少年たちの気持ちがわからなくもない。倫理的制約は薄れて久しい。犯罪のコストは小さい、あるいは不透明である。そしてベネフィットがむちゃくちゃ大きい。少年による凶悪犯罪が起こるたびに、日本のメディア全体がまるで性的に興奮したかのように大騒ぎをするわけだから。ええ、あれが歓喜の現われだということはちゃんと見抜いていると思いますよ、子供でも。このベネフィットの大きさという理由から、「厳罰化は予防につながらない」という議論には対抗できるように思う。このカテゴリーの少年犯罪者は明らかにコストとベネフィットの計算をしているからである。

 もちろんのこと、犯罪のマジョリティはもっと穏当なものであり、そっちの方にどう対処するかという問題の方が重要性は高い。そちらの面については、本書でも指摘されているような穏当なやり方でいいんだろう。また、180ページには次のような指摘がある。

本当に「すべての少年の健全な育成を期す」とするならば、たとえば子どもに対する親の虐待に対して、日本ではあまりなされてこなかった親権剥奪をともなう少年の保護が必要になる場合もあろう。自殺に発展しかねないような「いじめ」に対して、見て見ぬふりをするばかりではなく、保護主義的な観点から新たな措置を講じる必要もあろう。精神的な病理の芽を見せはじめた少年に対して、専門家の適切な判断をもとにいち早く治療に入るシステムづくりを用意することは、少年の健全育成を阻害するものではない時代に突入していると私は思う。

 上記のような措置が本当に妥当かどうかはおいといて、もし「保護主義」を徹底するのであれば、国家が少年とその環境に対してかなり強権的な介入をするのが当然だという観点が重要である。最近の輿論は、戦後リベラリズムの衰退に伴い、教育や警察行政の面で反動化が進んでおり、この手の保護主義が受け入れられやすい土壌があると思われる。そうしたとき、いま少年法改正に反対しているようなリベラルたちはどういう立場をとるのだろうか。私は、もしこれらのリベラルが一貫性のある立場をとるのならば、たとえば警察のストーカー対策強化や、幼児虐待や家庭内暴力の「犯罪化」には反対すべきだと思っている。そうしないのであれば、現実の前に論理は崩壊し、彼らの主張はきわめてオポチュニスティックなものに見えてしまうだろう。私自身は、どう考えればよいのかよくわかっていない。

2000/8/19

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