あえて英語公用語論

船橋洋一 / 文藝春秋 / 00/08/20

愚かだ

 以前、小渕首相の諮問機関で、河合隼雄が座長を務めた「21世紀日本の構想」懇談会の報告書に「長期的には、英語を第二公用語とすることも視野に入ってくる」という文言があったことが話題を呼んだことがあった。著者の船橋洋一(『同盟漂流』)は、この懇談会の、英語公用語論に賛成したメンバーの1人だったという(メンバー一覧はこちら。こういう人々に21世紀の日本を論じてもらっていたのである、われわれは。なお、リンクのファイル名に"menba"という文字列が含まれているのは、外来語カタカナをあくまでも日本語として捉え、それを正しくローマ字化した結果であろう。だがそれならば、その親ディレクトリを"21century"でなく"21seiki"、百歩譲って"21senchuri"とする配慮が欲しかった)。とうぜん、この「英語公用語論」に対しては広い範囲から批判の声が上がった(と信じたい)が、本書はそういう批判に応える本である。だが、この本はたたき台としてもほとんど役に立たない代物だった。

 片岡義男の『日本語の外へ』の項で書いたことと同工異曲なのだが、要するにこういうことである。世の中には日本人が使う日本語のいわゆる「不明瞭さ」について嘆く人がいるが、そういう人が往々に、自ら批判している不明瞭な日本語を書くことがある。本書には、片岡義男のケースのような高尚な話ではなく、「何が言いたいのかわからない」というきわめて基本的なレベルでの問題があった。この人は英語を云々する前に、自らの日本語を何とかする必要がある。

 これに関連して、記憶に残っているエピソードを1つ。NHK教育で、小学校での英語教育の導入の是非を「有識者」数人集めて議論するという討論番組が放送されたことがあった。出演者の中では、寺島実郎(『ワシントン戦略読本』)とピーター・フランクルの2人が正反対の立場に立って発言をした(出演者は他にもいたが、いずれもあまり意味のあることを言っていなかった)。寺島実郎はアメリカ生活が長い「アメリカ通」として知られる人で、その立場から船橋洋一や日高義樹(『日本国に大統領が誕生する日』『キッシンジャーからの警告!』)などとともに、日本人一般にいろいろと説教をしている人である。さて、その番組で寺島実郎は、本書の船橋洋一と同じような路線で、これから日本人は英語を習得しないと取り残されるというような理由から、小学校からの英語教育の導入、しかもネイティブ・スピーカーを教師とする英会話重視の教育の導入を主張した。これに対しピーター・フランクルは、いくつもある言語の中から英語を特権化するべきではないとか、外国人とのコミュニケーションには自国語で他人と明確にコミュニケートする能力が必要となるとか、外国語は後からいつでも学べるなどの理由から、そのような英語教育は必要でなく、むしろ日本語によるディベートの時間を設けるなどの対策を練るべきだと主張した。興味深かったのは、この2人の主張の内容と外見的印象のギャップである。寺島実郎は、「英語を使ってコミュニケーションが取れないと取り残される」というレベルのことを延々と反復して口にするだけで、結果として「曖昧な日本語」の典型とでも言うべき何の説得力もない日本語を喋っていた。一方、ピーター・フランクルは、ところどころに文法的な間違いもあるが、冷静で論理的で説得力のある日本語を喋った。ピーター・フランクルが偉すぎるということに過ぎないのかもしれないが、英語を喋らせてもたぶんピーター・フランクルの方が寺島実郎よりも圧倒的に上手だろうということを考えるとため息が出てくる事態ではある。

 話を元に戻して、本書の内容はほんとに訳わからないんで単なる推測になるんだが、どうやら「英語公用語論」というのは、日本の英語教育がうまく行っていない現状を変えるための上流からの手段という位置づけに過ぎないようだ。政府レベルや企業間での外国人とのコミュニケーションがとか、インターネット上での英語のコンテンツがとか、外国からの移民の受け入れでみたいな話はいろいろと出てくるが、いずれも「公用語」という極端な話を持ってくる必然性はまったく感じられない。一方、著者が提唱しているような形で英語の使用を強制したときに生じる望ましくない事態に関する分析が本書にはまったくなく、議論のたたき台にすることも難しい。

2000/8/26

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