天皇の戦争責任

加藤典洋、橋爪大三郎、竹田青嗣 / 径書房 / 00/11/05

★★★★

これは面白い本だった

 「天皇の戦争責任」について、加藤典洋(『日本の無思想』『敗戦後論』)、橋爪大三郎、竹田青嗣の3人が語り合っている本。座談会形式だが、徹底的に手を入れているようで読みやすい。橋爪大三郎が「天皇は西洋流の立憲君主であった」という観点から天皇の戦争責任を否定する立場に立ち、加藤典洋が『敗戦後論』などに展開していた文芸批評的な立場でこれに食らいつき、竹田青嗣が司会をしている。3人に共通する問題意識は、レフト、ライトの両翼の天皇論が行き詰まっており、新しい視点からこの問題を論じなくてはならない、ということである。個人的な感想を言わせてもらえれば、そのことに気づくのが20年ほど遅い。

 個別の主張の内容はともかく、本書のスタイルは健全なディベートとしてかなりのレベルに達していると思う。そのことだけでも、本書は読む価値があるだろう。ところで本書は、議論を通して、各参加者が他の参加者の意見を理解していくプロセスをなぞっている。しかし、橋爪大三郎が最後に述べているように、このディベートは天皇機関説(橋爪)と天皇親政説(加藤)の間での、互いの論理の基盤の紹介のしあいというふうに要約できてしまう。パワーは天皇機関説の側にあり、これに現代日本の価値体系にそれほど矛盾しないような形でいかに天皇親政説をぶつけることができるかが焦点となる。この天皇機関説の強さは、リバータリアニズムの強さに似ている。したがって、橋爪の方が、加藤あるいは竹田のような人のところまで「降りてくる」義務があると私は思っており、「天皇制の廃止と共和制への移行」をちらつかせた上での機関説の主張は禁じ手だと思う。個人的には(戦争責任の有無は別として)こちらの主張の方がなじみやすいのだが。

 本書では、竹田青嗣が「若い人でも納得できるような論理」みたいな概念を何度か持ち出しているが、正直いって(私はすでに若くはないんだが)若い人はとっくの昔に本書の水準を超えてしまっていたと思う。というのも、竹田や加藤が理解するのに苦しんでいるように思われる橋爪流の「天皇機関説」は、多くの人が何の苦労もなく理解できるはずだ。共感するかどうかは別として、そういう概念を理解するのは簡単である。むしろ理解するのが難しいのは加藤流の天皇親政説というか天皇形而上学説であり、若者はこれを外部の概念として取り込み、咀嚼しないとわからないんである。というか、たとえば加藤の『敗戦後論』は、そういうふうにわからなくなったことを現代的な言葉で復活させようという試みなんだ、と少なからずの人は思っているはずである。

 なお、戦後の天皇について、私は「天皇公共事業説」というものを提唱している。天皇制は日本国憲法で定められた公共事業なのである。日本国が天皇制を公費を投じて維持しているのは、それが道路や橋と同じように社会的インフラストラクチャと外交的な切り札となっているからだ。天皇制の廃止、すなわちこの公共事業を廃止するということは、皇室の民営化を意味する。

 本書の執筆者たちはいずれも民主主義者/漸進的進歩信奉者であり、天皇なる存在がそういうフレームワークにうまく当てはまらないことの違和感が、そもそもの議論のモティベーションとなっている。しかし、「天皇公共事業説」の立場から見ると、結局のところ天皇制を維持すべきかどうかは、他の公共事業と同様にコスト/ベネフィットの問題となるのである。この立場は、加藤のような形而上学的な議論に対する頑健さが天皇機関説よりもはるかに強く、このようなディベートでは禁じ手なのだが、多くの人はこれに似た水準で天皇制を考えており、だからこのようなディベートに非現実感を抱くのではないかと思う。

 なお、この天皇機関説と天皇形而上学説がどのようにリンクしてきたかを説明しておく。大東亜戦争から太平洋戦争にかけて、昭和天皇が立憲君主制の下で「権力のない君主」として振る舞ってきたという天皇機関説は、「介入しない父親」という像を強化する。また、戦後に昭和天皇がじっと我慢をしたことは、「文句を言わない父親」という像を強化する。つまり、この論理は、天皇と国民の間に「父―子」の関係、あるいは「ヤクザの親分―子分」の関係を見て取る形而上学説と必ずしも対立するのではなく、むしろ強化してきたという経緯がある。本書では、橋爪が天皇制の廃止と共和制への移行ということを、イデオロギー的な前提とするという担保をとって、この説を唱えている。

 天皇機関説の最大の弱点は、天皇という地位と、昭和天皇あるいはいまの天皇の人間としての個人を切り離して論じなくてはならないことにある。そのことが、個人としての天皇に対する過剰な思い入れを許容するのである。個人的には共和制への移行でもよいし、公共事業説の徹底推進でもどちらでもよいが、この過剰な思い入れの余地をなくすことが問題解決への道だと思うが、これは実質上、「過去のことを忘れましょう」ということであり、たとえばアジア諸国の犠牲者に対する責任、あるいは加藤の言うように日本の死者に対する責任を論じるのに適したフレームワークではもともとない。天皇制を廃止し、それを「民主主義革命」であると位置づけ、日本人がその革命を行ったことによって責任を引き受ける、というようなアプローチは可能ではあるが、「若い人」には第二次世界大戦の戦争責任なんかまったくないのだし、責任を引き受ける意欲もないはずだから、仮にそのような革命を行ったとしても、その大義は後づけの屁理屈にしかならないだろう。

2000/12/9

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