機会不平等

斎藤貴男 / 文藝春秋 / 00/11/30

★★★★

興味深いのだが、陰謀史観か

 著者は『プライバシー・クライシス』の人。本書の帯には 「「結果の平等主義」が衰退を招いた? 冗談ではない! 私たちは「機会の平等」すら失いつつある」とある。各章のタイトルは「「ゆとり教育」と「階層化社会」」、「派遣OLはなぜセクハラを我慢するか」、「労組はあなたを守ってくれない」、「市場化される老人と子供」、「不平等を正当化する人々」、「優生学の復権と機会不平等」。

 このようなトピックについて、自ら取材して書いている。ポスト新左翼ルポルタージュという感じだ。熱いが、それゆえに冷静さを失っていると思われる部分も少なくない。しかし、教育改革国民会議の座長である江崎玲於奈が著者によるインタビューで洩らした次の言葉を見ると、冷静さを失っても仕方がないと思うこともたしかである。(12ページ)(教育改革国民会議については『教育改革国民会議で何が論じられたか』も参照)。

人間の遺伝情報が解析され、持って生まれた能力がわかる時代になってきました。これからの教育では、そのことを認めるかどうかが大切になってくる。僕はアクセプトせざるを得ないと思う。自分でどうにもならないものは、そこに神の存在を考えるしかない。その上で、人間のできることをやっていく必要があるんです。
ある種の能力の備わっていない者が、いくらやってもねえ。いずれは就学時に遺伝子検査を行い、それぞれの子供の遺伝情報に見合った教育をしていく形になっていきますよ。

 筆者はこのような発言(他にもいろいろある)から、政官財(さらには労組も)が一体となって進行させている大きな陰謀という構図を描く。労働力の市場化を通して貧富の差を拡大させるという目的の陰謀である。たしかに本書のように、この大きな構図に合致するエピソードを集めていけば陰謀が進行しているように見えなくもない。特に労働力の流動性を高めようとする近年の動きは、多くの利益集団のコンセンサスの下で起こっているように見える。だが、これを教育問題とどのようにリンクさせるかはとても微妙なところだ。各種の動きや観念を1つの陰謀理論のもとに統合するのは難しいように思う。

 特にやっかいなのは、教育改革国民会議の特に第一分科会の位置づけである。著者の陰謀史観では、ゆとり教育は個人間格差を広げるための手段なのだが、教育改革国民会議の第一分科会はこれに対して、全体の底上げを主張する。『教育改革国民会議で何が論じられたか』の項でも書いたが、ゆとり教育推進派の文部省が、政府(したがって財界)の意向を受けて、ゆとり教育+エリート教育路線に移行するための地固めをするということがそもそもこの教育改革国民会議の目的だったのだが、そういう雰囲気を察知しない変人が何人も現れたので、それらを隔離したのが第一分科会だった、という可能性がある。だが本書の著者は、特に曾野綾子の書いたマニフェストに現れているような心情には、ゆとり教育との整合性があると考えている。つまり、ゆとり教育による学力低下という目論見は徐々に達成しつつあるので、こんどは身体レベルでの馴致をはかろう、というシナリオである。

 これは、河上亮一などの真面目な教育関係者や、その他のゆとり教育批判論者が考えているシナリオとは違う。彼らの考えでは、ゆとり教育→戦後民主主義→学力低下という因果関係があり、身体レベルでの馴致はあくまで学力底上げのための手段なのである。

 両者の間の食い違いの大きな原因は、おそらく「学力」というものの捉え方の違いだと思う。前者は学力を、労働力の選抜に使われる知識として捉えているのに対し、後者は学力を、労働者として身につけるべき基本的態度のようなものとして捉えている。皮肉なことに、後者の方が戦後民主主義と整合的で、彼らの言う底上げは機会の均等化の推進に他ならない。

2000/12/30

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