オブラー博士の危険な患者

サイコパスに狙われた精神科医の手記

Fatal Analysis: A True Story of Professional Privilege and Serial Murder

マーティン・オブラー、トマス・クラヴィン / 早川書房 / 01/01/31

★★

奇怪としかいいようがない

 著者のマーティン・オブラーは精神科医/心理学教授。トマス・クラヴィンはジャーナリストで、ライティングを担当したのだと思われる。本書は、セラピストとして営業していた著者が、クライアントの一人が連続殺人を犯しているサイコパスであることを発見したときの事情を描いた「ノンフィクション」。しかし、「著者のおぼえ書き」には「本人やほかの人びとのプライヴァシーを守ると同時に、匿名性を確保するため、名前や出来事や場所は変えたり、追加したり、改めたりしてある。……ある事例では、時系列にも変更をくわえてある」とあり、非常にやっかいだ。このせいで、本書をノンフィクションの文脈で判断することは不可能になってしまうが、現実の事例をベースにしていると言われればフィクションとして評価するのも無意味である。

 本書のテーマは、セラピストなどのプロフェッショナルとクライアントの間の秘匿特権が生み出すジレンマである。これは弁護士、精神科医、聖職者などを主人公にしたミステリ小説や映画よく取り上げられるテーマなのだが、本書の内容はこれまでに読んだどのフィクションよりも信じがたいものだった。とりわけ、本書でのジレンマの解決手段を著者が「論理的・倫理的に正しいもの」と思い込んでいることじたいが信じがたいのだが、上で書いたように、これが事実を正確に記述したノンフィクションでないのだとすれば、この奇怪さはストーリーの改変によって生じたものなのかもしれない。これが純粋なフィクションとして売られていたら、「バカなセラピストを主人公にしたホラー小説」か「論理的整合性がとれていない失敗作」と思ったかもしれないんだが。

 ともあれ、これが秘匿特権をテーマとするフィクションだったとしたときの一番の論理的欠陥は、患者のデヴォンがセラピストのガールフレンドであるレイチェルを誘拐したことが、医者=患者間の特権ではカバーされないということに本人が気づいていなさそうなことである。誘拐の被害者となったレイチェルが警察に通報しなかったことは、主人公とガールフレンドの間にそうとうな亀裂を入れたはずだ。本書では描写されていないけれども、主人公はレイチェルに対し、「君の権利が侵害されたことはわかっているが、ここは僕のために目をつむってくれ」と説得しなくてはならなかったはずである。この点での明確な説明がないために、主人公だけでなく、レイチェルもそうとうなバカに見えてしまっている。

 ノンフィクションとして理解した場合の大問題、あるいはフィクションとして理解した場合の「主人公のバカさ加減の露呈している部分」は、出来損ないのホラー映画のようなエンディング以外にもいろいろとある。(1) 患者をサイコパスとして認定することに対するためらい。サイコパスは治療不可能だとされている現在、精神科医の間に、それらしき兆候を見せている患者をサイコパスとして診断することにためらいが生じるという事情は理解できるのだが、これは決して自慢できることではない。(2) 著者本人が圧迫感を感じるほどの強烈なパーソナリティを持つサイコパスを、よりにもよって明確な精神的問題を抱えている人々の間に「グループ・セラピー」という名目で入れていること。このグループ・セラピーで、他の参加者たちは明らかに悪影響を受けている。著者の記述には、そのことに関する懸念は微塵も見られず、実験動物を観察しているかのようである。(3) 警察との曖昧な関係。あいまいな形で警察に接触すること自体がバカであり、警察の側がもっと積極的に働きかけてこないのも不思議だが、それ以上にまずいのは、警察上層部が連続殺人犯を逮捕したという建前を維持するために著者の告白を受け入れることを拒絶したことが言い訳になっていると思っていることだ。本気で警察に働きかけようと思ったならば(その時点で著者にはたしかにそのような意思があるように思われる)、いくらでも方法はあるだろうに。

 まあそんなこんなで、「奇書」というか「バカ本」に分類すべき本ではあるけれども、セラピストと患者のセッションの描写にはさすがに迫力がある。この部分だけは、実際にそれを体験した人にしか書けないリアリティがあるように感じられた。特にサイコパスの患者が、小説に出てくるような「完璧さ」を持っておらず、脆弱な面を持ち合わせているのが興味深かった。

 神戸小学生殺人事件の「少年A」の両親が書いた『「少年A」この子を生んで』や、息子が自殺した経緯を描いた柳田邦男の『犠牲(サクリファイス)』のような後味の悪さを感じさせる本。ひとことで言えば、「こんな本を書く神経が、とりわけこれが弁明になりうると思っていることが信じられない」ということである。

2001/1/27

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