正しく生きるとはどういうことか

池田清彦 / 新潮社 / 98/05/15

★★★

意欲的な取り組みではあるが

 「人々が自分の欲望を解放する自由(これを恣意性の権利と呼ぼう)は、他人の恣意性の権利を不可避に侵害しない限り、保護されねばならない。但し、恣意性の権利は能動的なものに限られる」(7ページ)という基本原理から、さまざまな倫理的概念を導出しようという試み。これらの概念はいずれも穏当な(常識的な)ものなので、上記のラディカルな基本原理からいかにして穏当なものを導き出すかという手腕が問われるところだが、ぎりぎりのところでアドホックな説明が多いような気がした。いずれにしても、これは非常に難しい課題だ。アドホックに適用されているように見えるもろもろの論理から、さらにいくつかの「基本原理」を引き出して整理する必要があるように思えた。

 あとがきには、笠井潔の『国家民営化論』の刺激を受けて書いたものだとある。

1998/6/7

 追記。172ページあたりに、人間の体や命は、その人の所有物ではないので、譲渡や交換はすることができないという論法がある。上記の基本原理は自由市場を強く支持するが、この制限から臓器の取引や自殺が禁止されることになる。しかし、この議論にはいくつかの問題があるだろう。重箱の隅をつつくようではあるけれども、たとえばカツラに使われる髪の毛を売る人はどうなるだろうか。髪の毛を切っても生命に重大な問題は生じないから、本書の173ページあたりに記されている倫理にはとりあえず抵触しないだろう。そうやってとりあえずこの商取引を認めてしまうと、髪の毛はその人が栄養を摂取し、手入れをすることで製作したプロダクトであるということがはっきりと見えてくるはずである。ここから献血、臓器移植などまでのスペクトルは連続である。

 具体的に臓器移植を許容すべきかどうかはどうでもよくて、要するにこの本の基本原理と上記の制約条件の組み合わせは、うまく整合しそうにない。しかしそれよりも重大なのは、もちろんのこと、このアプローチの基盤にある「私」と「私の体」の分断が、いろんな問題に波及するということだ。基本原理にうたわれている「自分の欲望」の定義とか、所有物の定義の1つに使われている「自分の労働」の定義とか、もちろんのこと心身問題にも。

1998/6/11

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