失語の国のオペラ指揮者

神経科医が明かす脳の不思議な働き

Defending the Cavewoman: And Other Tales of Evolutionary Neurology

ハロルド・クローアンズ / 早川書房 / 01/02/15

★★★

 著者はパーキンソン病を専門とする臨床神経科医で、医学関係のエッセイを書いていた人。1998年に死去している。本書はオリヴァー・サックスに似た感じのエッセイ集。原題の"Defending the Cavewoman: And Other Tales of Evolutionary Neurology"は、人間を人間たらしめているのは言語であるが、人間の言語の獲得にあたっては、穴居人の女性が大きな役割を果たしたはずだということを言っている。従来、人間の精神機能の進化を説明する際には、協調して狩りを行うといった男性(caveman)の機能が引き合いに出されることが多かったけれども、狩りに付随する各種の行動は人間以外の動物も普通にやっていることなんであり、むしろ人間の言語獲得の「機会の窓」、すなわち9〜10歳ぐらいまでの時期の子供と会話をしていた女性の貢献がはるかに大きかった、という主張である。このテーマのもと、失語症をはじめとする言語機能関連の脳障害に関するエピソードを多く収録している。邦題は全失語に陥った指揮者のエピソードからとっているが、著者にとっての本書の売りである「神経科学への進化論的なアプローチ」を完全に無視したものになっている。まあ、この主張が妥当なのかどうかは難しいところなので、その点での配慮があったのかもしれないのだが。

 個々のエピソードはそれなりに興味深い。指揮者の件については、私はかなりの偏見を持っていて、「指揮者はもともとそのていどのことしかやっていないんである」と言いたくもなるんだが、失読症に陥った学者を扱った第5章「好きな映画は字幕なしで」の症例には仰天した。局所的な脳梗塞で、字を読むことができなくなったその学者は、点字を勉強して読書を続ける。だが、運動障害が進行して点字を読むこともできなくなったときにその学者がとった打開策は、なんと、右から左に書かれるヘブライ語を勉強するというものだった。彼の失読症は左から右へと書かれる言葉にのみ作用するもので、それらの言語はまったく読めないのだが、逆向きに書かれる言語ならば読めるのである。上から下に書かれる日本語などの言語ならどうなのか興味深いところで、この章にも簡単な解説があるけれども、どうやら人間は水平に書かれる言語と垂直に書かれる言語を読むときには、脳の各部分を違った方法で使用しているらしい。というか、左から右にも、(過去においては)右から左にも、上から下にも書ける日本語は、この体系のいったいどこに収まるんだろうか。

 ただ、そういう興味深い「豆知識」はともかく、本書にはオリヴァー・サックスの本にも見られる医者の傲慢さが感じられて気持ちが悪い。患者は病気をなおしてもらいたくて医者のところに行くのであり、自分が科学エッセイのネタとして使われて、プライバシーを暴露されたら、そのエッセイがどれほど同情に満ちたものであっても気持ちよくは思わないだろう。とりわけオリヴァー・サックスと共通するのは、患者に対して同情的な心情を、「優しい筆致」とか「洗練された文体」で書けば、この根本的な裏切り行為が許されるという思い込みがありそうなところである。この種の「医者による科学エッセイ」には、この鈍感さが多々見られる。

2001/3/3

TRCの該当ページへ

amazon.comの該当ページへ

検索ページへ 目次へ 前へ 次へ