喪失の国、日本

インド・エリートビジネスマンの「日本体験記」

M・K・シャルマ / 文藝春秋 / 01/03/01

★★

少しばかり胡散臭い

 1992年4月から1994年1月にかけて日本に滞在したインド人による日本論。『諸君』に連載されていたものらしい。「訳者の序」には、本書の翻訳出版をめぐる奇妙な経緯が書かれている。訳者はニューデリー南部の寂れた本屋の棚で、デーヴァナガーリー文字で書かれた『日本の思い出』というタイトルの本を発見し、購入する。しかし訳者には、タイトルのヒンディー語を読むことはできても、本文を読むだけの語学力はなかった。その後、彼はインド西部のラージャスターン州の最深部にあるジャイサルメールという町を訪れ、そこで出会った一人のインド人の家に招待される。そして、そのインド人がなんと『日本の思い出』の著者であったことが判明する。著者はヒンディー語が読めない訳者のために、その本の英訳版を作り、訳者に送った。その原稿が本書の底本となった、ということらしい。

 「訳者の序」の最後には、「訳出にあたっては脚注による煩わしい説明を止め、本文に私なりの補足をくわえて読みやすいものにした。むろん著者であるシャルマ氏の了解をとってのことである」とある。そのこともあって、本書はやたらに胡散臭い内容になっている。もともとインド人を対象読者として書かれたものであるはずなのに、内容は日本人向け。『日本人とユダヤ人』のような、外国人の著者を捏造して書かれたパスティーシュのようなものなんではないかという疑いを抱いた。いったん疑いだすと、不自然に思える点がいくつも目につく。語り手のインド人が、日本に滞在することになったにしては、当初あまりに無知であること。その後、1年8か月しか滞在していないのに、そこらにある普通の「日本人向けの日本論」の語り手となってしまっていること。彼が日本で出会う日本人の何人かが平均的日本人とはとうてい言えないような人々であること。もし著者が実在し、本当に本書の原型となった本を書いたのであれば、このような疑念を読者に生じせしめてしまったのは、ひとえに訳者が加えた「補足」のせいである。外国人が同国人を対象に書いた日本論の翻訳に、翻訳者が「補足」を加えてしまっては何の意味もなくなるではないか(ただしもう1つの可能性として、著者が訳者のために書いた英文原稿の修正がはなはだしかったということが考えられる。当たり前のことだが、ヒンディー語が読める訳者を起用して、オリジナルから訳出すべきだったんである)。

 この読書メモで取り上げている、「同国人を対象に書かれたが、日本人向けに修正された日本論」には、他にも『もうひとつの日本』『韓国は日本を見習え』などがあるが、いずれも修正は著者が行ったものだった。それでさえも私には不満である。著者が西洋人だった場合、そのような修正を日本人は歓迎するだろうか? というよりも、そのような修正を日本人読者が歓迎すると出版社と編集者が思うだろうか、と考えると、ここには明らかに差別意識が働いていることがわかる。

 内容については、上にも書いたように標準的な日本人論。ただし、インド人とインドの文化についての言及は興味深く(また、そのことが上記の疑いを強化する。インド人がインド人向けに書いた日本論で、何でインド人やインドの文化について興味深い記述を行う必要があるのか?)、かえって信用できない。カーストについての言及が多くて面白いが、話半分に聞いておこうということになってしまう。

2001/3/10

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