戦争を記憶する

広島・ホロコーストと現在

藤原帰一 / 講談社 / 2001/02/20

★★★

安定しているが弱いか

 著者は政治学者。「戦争の観念」に関する民間思想史のようなもので、本職からは離れた内容らしい。もっぱらアメリカと日本における戦争の観念の違いを、歴史的経緯を追って解説していくという内容。この読書メモでは、本書の議論の導入として使われているスミソニアン論争や、アメリカにおける原爆投下の理解のされ方に関連する本として、『拒絶された原爆展』『アメリカの中のヒロシマ』『戦争と正義』などを取り上げている。また、アメリカの民主主義と戦争の関連については、『二次大戦下の「アメリカ民主主義」』が実に面白かった。

 本書は中高生向けの入門的読み物として優れていると思う。悪口ではなく、基本的なところを押さえているという意味で。以下、いくつかのコメント。

 本書の多くの部分では、映画や文学作品を引き合いに出して、アメリカと日本における戦争の観念の変遷を追っている。このアプローチはいいと思うのだが(私もこういうのが好きなので)、映画好きの目から見ると不満が残る部分もある。たとえば、アメリカ人の戦争観を論じる流れで、アメリカ流の「正戦論」を主張したいがために、ベトナム戦争映画についての言及を最後に持ってきている。どの順序で論じようと別にかまわないのだけれども、このような構成のしかたはアナクロニズムであるように見える。個人的な感慨としては、本書で論じられているようなアメリカの映画と文化の変遷のなかで、ベトナム戦争は重要な一つのエポックなのであり、本書が示唆しているような例外的なエピソードではないのである。

 この違和感はささいでありながら、私個人にとっては非常に重大なものだ。たしかに本書で言及されている、スタンリー・キューブリックとスティーヴン・スピルバーグのフィルモグラフィー「だけ」を見れば、本書のような歴史の描き方は可能なんだろうと思う。しかしその他のさまざまな映画たちを視野に入れれば、ベトナム戦争の影響は圧倒的であり、それだけにこのところのアメリカ映画の「保守化」(と私は呼んでいるが適切な呼び名かどうかはわからない)が驚きなのだ。本書ではスピルバーグの『プライベート・ライアン』を、スピルバーグ本人の映画作家としての変化という文脈で説明しているけれども、私の見方は違っていて、アメリカの社会が『シンドラーのリスト』や『プライベート・ライアン』のような映画を欲しており、オポチュニストのスピルバーグがそれに応えたというものである。この手のアメリカ映画は1990年代に入って急増しており、単に一映画作家の傾向の変化として理解できるものではなく、社会全体の変化を反映した変化なのである。という風に論じた方が本書の主張には適していると思うんだけど、戦争に関する新書本で映画本のような話をするわけにもいかなかったのだろうか。

 戦争映画以外の映画にも目を向ければ、その傾向はいっそう明瞭になる。たとえばアメリカ大統領の描かれ方、「政府内の陰謀」の描かれ方、法執行機関の描かれ方などのさまざまな面で、アメリカ映画は明らかにベトナム戦争の後遺症から抜け出して、新しい時代に入っている。本書は戦争の観念をテーマにしているため、この変化を戦争の観念という観点からしか論じていないけれども、実際にはもっと大きな流れの中の一要素なのだ。とはいえ、結論は表面的には似たものになる。私の考えは、アメリカ人は「第二次世界大戦が正戦だった」、「アメリカは正義を実行している」、「アメリカ人というアイデンティティがある」といったもろもろの観念を信じる必要に迫られており、またそれを信じられるようになったというものだ。必要に迫られているのはそれらの観念が危ういからであり、信じられるようになったのは1990年代に入って経済が上向いたからである。

 本書に対するもう1つの不満は、諸々の観念の変化を扱う中で、経済事情をほとんど考慮に入れていないことだ。私の考えでは、1990年代に入ってのアメリカの(上記の)変化と、本書のもう1つの重要なトピックである日本のナショナリズムの流れには、それぞれの国の経済状況が大きな影響を与えている。最近の日本における自由主義史観などのナショナリズムの抬頭は、それだけが原因であるとは言わないけれども、平成不況が最も重要なファクターであることは間違いない。このことは、戦後日本のバブル崩壊までの時期の戦争の観念の変遷に、経済事情の分析が入っていないことの問題を浮き彫りにする。たとえば私の考えでは、いまの自由主義史観の人が「自虐史観」と呼んでいるような1970年代頃のリベラリズムは、高度経済成長を達成した日本人の「余裕」の表れなのである。この余裕がなくなった1990年代の変化を、著者は「冷戦の崩壊」という概念で説明しようとしているように見えるが、時期は一致するにしても、直接の関係はない景気後退の方がずっとその影響は大きいのではないだろうか。知識人はソ連がなくなったことに衝撃を受けたかもしれないが、一般人はそんなことはあまり気にしていない。そして現在のナショナリズムは明らかに一般人の(要するに知識人でない人々の)支持を得て勢いを強めているのだ。

 さて、本書は例によって自由主義史観に対する牽制という動機から書かれたものらしく、「左翼」の人々によって書かれた類書と比べるとずいぶんとマシである。本気で自由主義史観に入れ込んでいる人々にとっての解毒剤にはなるかもしれない。しかし、本書もやはり結論が弱い。193ページには次のような文章がある。

私は、戦争について、正しい記憶があるとは思わない。また、国民の物語として語られる戦争の記憶には、「国民」を軸とする虚構をはらむため、必ずウソがあると思う。
しかし、そのような国民のウソを暴くだけでは、外から観察する知性の倨傲だけが示されることにもなりかねない。戦後啓蒙がかつての自由な思惟から遠ざかり、その啓蒙思想に代わってより粗暴な「祖父たちの物語」とその自己愛が読者に受け入れられていく過程は、普通の人々が意味を見出せない思想の直面する厳しい限界を示している。
それでは何が残るのだろう。

 これを受けて、「国民の物語に組み込むのではなく、市民社会の夢に解消するのでもなく、戦争の残したものを捉えた作品が、一つある」として、「中国の湖南省に生まれ、シンガポールで育った劇作家」の作品の一部を引用し、ワシントンのベトナム戦争記念碑と、沖縄南部につくられた、国籍を問わず、沖縄戦の死者の名前だけを記した慰霊碑が、その精神を反映している、と述べる。この部分はたったの3〜4ページ。これでは納得できないでしょう、さすがに。そもそも本書は「国民の物語」を相対化する試みであり、「外から観察する知性の倨傲」そのものなんである。読者はそれをわかって読んできているのだから、この部分は余計であるし、わざわざ余計なことを試みたわりには実に非力だと言わざるをえない。それ以前に、ベトナム戦争記念碑ってそういう風に評価できるものだろうか? あれは飽くまでもアメリカの内向きの政治的な流れの中で尊重されているものでしょう。沖縄の慰霊碑については知らないのだが、説明を読んでいると、広島の「主語のない」原爆慰霊碑を連想する。どこが違うのか?

 『徹底批判『国民の歴史』』の項に書いたこととも関連するが、自由主義史観の信奉者の少なからずの人は、本書で論じられているような「国民の物語の相対化」のことはちゃんと知った上で、つまり国民の物語が虚構であることを知った上で、自由主義史観という虚構の物語が構築可能である、ということに楽しみを見いだしているのだと推測する。つまり具体的な内容の信憑性よりも、物語の構築の手腕に感動しているのである。そのような人々に向かって、国民の物語は相対的なものであると言っても効果はない。そもそも、本書で簡単に触れられているシンガポールのケースで行われているような、大日本帝国の戦争行為の被害国における戦争観の相対化、あるいは敵国アメリカの戦争観の相対化は、自由主義史観の側の道具である。本書で言う「正戦論」を採用する人は、相手国の戦争観を相対化せざるをえないのであり、本書はいちおう正戦論にも反戦論にも与しないという立場に立ってはいるが、論理的につきつめれば正戦論のコンポーネントが含まれているように思われる。

2001/3/10

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