スプーン

超能力者の日常と憂鬱

森達也 / 飛鳥新社 / 01/03/27

★★★★

相変わらず進歩していない

 著者はオウム真理教信者を描いたドキュメンタリー映画『A』を作ったドキュメンタリー映画作家。本書は、「超能力者」をトピックにしたTV向けドキュメンタリーの製作過程での体験を書いたもの。主に取り上げられているのは、(帯の言葉を使えば)スプーン曲げの清田益章、UFOの秋山眞人、ダウジングの堤裕司である。

 「まっとうな人間がサイキックの人に近づいて困惑する」というパターン。本書では、1970年代のユリ・ゲラーのブーム以降、このトピックを巡る状況はまったく変わっていないという表現が何度か出てくるが、これはいっそのこと19世紀から変わっていないと言った方がよい。その中で、本書の著者のような理性的で客観的な第三者がアプローチすると、本書に描かれているような、はっきりしない思索の堂々巡りに陥るというパターンがいくどとなく繰り返されてきた。著者はこの堂々巡りを生み出す原因に現代日本のあり方を見ているけれども、これは時代と文化を問わない普遍的な現象なのである(近代以降という限定を付けるべきか)。実は、メインストリームの(というか欧米の)超心理学者も同じような体験をし、本書で描かれているような「派手」な現象をとりあえずオミットしている。やはりユリ・ゲラーを発端とする1970年代のブーム(とその崩壊)の影響は大きく、超心理学は完全に被験者の無作為抽出による実験に向かった(基本的なトレンドは1930年代頃に確立されていたが、その確立の動機も同じことである。)。

 本書で取り上げられている3人について、私の持っている印象を書いておく。清田益章は、そのパーソナリティとメディア上での活動のおかげで、このタイプの人物として歴史に残るような際立った存在になったと思っている。パラディーノと同じぐらいの重要人物といえるかもしれない。堤裕司は、本人もそう思っていると思うが、単にダウジングの紹介者である。ただし彼がダウジングの背後に見ている「理論」にはまったく共感できない。秋山眞人は詐欺師だと思っていたのだが、本書を読んでいくぶん印象が変わったものの(本気なのかもしれないなぁ)、基本的に何言ってるのかわけがわからない。いずれも、本とかメディアを経由しての印象で、実際に会ったことなどはない。

 この機会に個人的な経験を2つ書いておこうと思う。

 1つは、いわゆる「超能力探偵」の人のこと。アメリカ南部のいくつかの州で、難事件の解決を助ける活動をしているいわゆる「サイキック」の人の話を聞いたことがある。アメリカ製のミステリ小説を読んでいる人ならばよくわかると思うが、アメリカのいわゆる「ローカルな警察」にはかなりの柔軟性があり、またそれらの「中央」との対立関係は非常に強い。そんななかで、公に認める人はあまりいないけれども、難事件において地元のサイキックが用いられるということは、本当にあるらしいのである。

 その人は40歳代ぐらいの、ぽっちゃり体形の中年のおばさんで、そこらのスーパーで見掛けても全然違和感のない普通の人だった。犯人の目を通して見た映像が浮かんでくるというタイプのESP能力を持っており、それをもとに警察に情報提供をしているという。その映像に何かわかりやすいランドマークが見えれば、犯人がどの当たりに住んでいる人物かがわかるというわけである。標準的なESPテストの成績は別に良くないけれども、この能力に関してはかなり優秀で、年に数回ぐらいの頻度であちこちの地元警察に協力しているらしい。事件が解決されないまま、その犯人のPOVの映像が浮かんでくると、非常に苛立つと言っていた。「本人が鏡を覗き込んでいる」とか、「住所の記された封筒を見ている」みたいな都合のいい映像は出てこないとのこと。

 もう1つは、「ポルターガイスト」の研究者として有名なウィリアム・ロールの話。すでに一線から退いていたが、20世紀後半の「ポルターガイスト」をはじめとする偶発的マクロPK研究の第一人者で、ポルターガイスト現象が起こっている場所を追ってヨーロッパ、北米、南米などのあちこちでフィールドワークを行った人である。一般向けの著書が数多くあるので、知っている人も多いかもしれない(TV番組も作っていた)。この人は、その体験のせいで、もう完全に「あっち」の側に行ってしまっていた。実はメインストリームの超心理学者でも、これほどまでに「あっち」の側に行ってしまっている人は本当に珍しいと思われる。

 まあ話を聞けば無理もないと思うだろう。この現象が真に活発化しているときには、「超常現象」として記録されるような現象が1時間に数十回の頻度で起こるという。要するに、戸棚が開いて皿が飛ぶというような派手なことが、咀嚼する間もないほど矢継ぎ早に起こるのである。そういうことを世界のあちこちで見て記録している人は、もはやその現象が「本物」であるかどうかなどという疑問は持たなくなる。本書には、清田益章が自分の部屋で数百本のスプーンを曲げていて気持ちが良かったと言ったという記述があるけれども、それと同じような境地に達しているものと思われる。

 本書には、「信じる」という言葉を巡る著者の逡巡が記されている。これについての私の考えは次のようなものだ。「あなたは超能力/神/UFO/進化論を信じますか?」というような言葉の背後には、その対象についての確信のなさ、さらにはそれを信じるかどうかが個人の選択の問題であるという観念が、質問を出す者と答える者の間で共有されているという前提がある。この前提のコンパニオンとして、科学の対象は信じる/信じないの問題ではなく、確証されるか棄却されるかのどちらかの、個人の外部のものであるという前提がある。そして、「あなたは超能力/神/UFO/進化論を信じますか?」という質問に対する逡巡は、これらのトピックが科学の対象であるべきもの、自分の外部にあるものだという観念から来ているのである。

 本書のいくつかのテーマの1つである、なぜ社会は超常的な現象を受け入れないのかという問題については、「抑圧」であるという精神分析的な説明を加えるのが標準的なやり方である。日本では笠原敏雄がきわめてラディカルな論理を組み立てているが、これもやはり源流は19世紀の心霊研究にまで遡ることができる。要するに、昔から人々は、社会がこの手の現象を受け入れないことを不思議に思い、なぜなんだろうと困惑してきたのである。

 清田益章と秋山眞人は、「宇宙人」の話題をよく出す(堤裕司は口が裂けても言わないと思うが)。これに関連して興味深かったのは、『ウルフェン』などの現代的なホラー小説の名作をいくつも書いたウィットリー・ストリーバーである。彼は、もともとは単なる小説家であったが、あるとき自分が宇宙人に誘拐されたという経験をしていたことを「思い出し」、そのことを描いた"Communion"と"Transformation"というノンフィクションを書いた(翻訳もされたはず)。後に彼は、これらの本に書かれている体験が「主観的なもの」であるということを認める。つまり、アブダクション体験は錯覚、幻覚だったと認めたのである。それでも、上の2冊の本(特に"Communion")は、理性的な現代人がアブダクションという異常な体験をしてしまったときに陥る困難を、圧倒的な迫力で描いた傑作であり、彼がそれまでに書いてきた作品の延長線のホラー小説としても出色の出来である(逆に、彼の抑圧されていた「体験」が、あれらの作品を生み出した、ということになるわけだが)。

 なお、本書には大槻義彦や安斎育郎などの批判者あるいは懐疑主義者に対するかなり手厳しい批判が書かれている。ある意味で、この2人を批判の矛先として取り上げるのはフェアでない(まあ、日本にはこの陣営にまっとうな論客はいないと言っても過言ではないが)。『IT革命? そんなものはない』のように、「IT革命」なる概念を批判するときに、批判の矛先で大前研一を選ぶと自分までもが安っぽく見えてしまうのと似ている。別の例としては、南京大虐殺論争で、「虐殺派」として本多勝一を取り上げて批判するのもいまとなってはまずい。

 とはいえ、彼らのプロトタイプであるアメリカのCSICOPもそれほどかわりのないレベルではあるんである。マーティン・ガードナーとかカール・セーガンなど、いわゆる懐疑主義者"skeptics"の本を読んで喜んでいる人には、一度、彼らが言っていることの事実関係を調べてみることをお勧めする。日本で出版されているこの手の本の大部分は実にレベルの低いものだ。ただ、それ以上に問題が大きいと思うのは、彼らの活動が社会に与えている悪影響である。『オウムはなぜ暴走したか』の項にも書いたことだが、もう一度書いておこう。

 いわゆる「懐疑主義者」の論法の1つに、「そんなことは科学的にありえない」とか「科学的に説明がつかない」というタイプのものがある。これは実に非科学的な言説であるわけだが、そのような言説が大衆の間に共有されていることは否定できない。さて、オウム真理教に限らず、オカルト信仰や新興宗教などに走る現代人は、それが「科学で説明できないこと」を扱っているということに魅力を感じたと語ることが多い。このような傾向を引き出しているのは、実は「懐疑主義者」の側なのである。ひとは、(それが超常的な現象かどうかは別として)不思議な現象を体験するものだ(といいながら、私自身にはそんな体験がほとんどないんだが。実に平凡な生活を送っている)。そして、それが「科学では説明できない」と思うと、一気に神秘主義の側に行ってしまいかねない。たとえば『オウムはなぜ暴走したか』の著者は、体脱体験(Out-of-body Experience)などの不思議な体験をしたことがきっかけでオウムに入信しているのだが、もちろんこれらは「科学で説明がつく」現象である。。

 上のパラグラフでは、「科学」という言葉が、(a) 真実発見のための理想化された客観的プロセスと、(b) 科学者社会学や科学論などのコンテキストでの社会と科学者集団の営みの2つの意味で使用されている。混乱の原因はまさにここにある。「懐疑主義者」は一般に「科学者」の側に立って発言をするが、その際の発言は、(a)の立場に立ちながら(b)を擁護するという形式のものになる。科学者はあくまでも職業人であり、(b)の意味での科学者コミュニティを守らなくてはならないからこうなるわけだが、この2つが別のものであるにもかかわらず、一般人は両者を同一視しがちだ。そのせいで、政治的・経済的・社会的などの、科学((a)の意味)的ではない理由で、(b)の意味での科学が扱えていない現象に遭遇したときに、それが(a)の意味での科学でも扱えないものと思って、人々は神秘主義に頼ることになる。

2001/3/24

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