服部さんの幸福な日

伊井直行 / 新潮社 / 00/01/30

★★★

どうもいまひとつ

 『濁った激流にかかる橋』の著者の前作。『新潮』の1999年9月号に掲載されたものが、2001年1月に単行本化されている。

 『濁った激流にかかる橋』が日本の昔のSF小説だったとすれば、こちらは中間小説。五木寛之とか遠藤周作などの名前を想起させる「ユーモア小説」だが、『濁った激流にかかる橋』と同様に、安定した文体とコンテンポラリーな感性をベースに、2001年の時点でも十分に読める内容になっている。ただしそれは前半までの話。後半に入ると、急にストーリーがミステリ仕立てになり、ここの部分は簡単に言えば「国際競争力」がない。ただし、私が読んでいる範囲の(しかしこのところほとんど読んでいない)コンテンポラリーな日本製ミステリの中では志の高い部類に属するとは言えると思う。

 本作の後半部分には、国際競争に巻き込まれないような要素、すなわち海外ミステリのジャンルと直接に競合しないような要素が一瞬だけ出てくる。クライマックスの、服部さんが奥様と対面するところである。だが結局はその可能性を十分に掘り下げないまま、出来の悪いハリウッド映画のような結末に向かってしまった。本書の前半部はユーモア小説として何の問題もないので、黒幕の陰謀に頼らずに、世間の一般的な悪意が主人公の服部さんを苦境に陥れるというようなストーリーを作るか、どうしても黒幕を出したいのならばもっとひねりを入れるか(服部さんが、その苦境と逆襲を経てどのように変わるかという点でのひねりも含む)していればよかったんだが。

 あと、『濁った激流にかかる橋』でも感じたことなのだが、小説としてのボリュームが小さいことが欠点になっている。すべての小説が長くあるべきだと主張しはしないけれども、両作に共通する「大団円」の印象が、冷静な文体から醸成される雰囲気のサポートを受けるためには、読者がその文体に浸る時間がもっと長くなくてはならないように思う。これは、たとえば本書の服部さんの人間描写をもっと細かくするべきだ、という意味ではない。いくぶんdetachedなこの文体が、この小説にポジティブな影響を与えている(というか、小説の軸である)ことは間違いないんである。ただ、服部さんも黒幕ももっと試練を受けなくてはならないし、それによってこの文体の文章が、もっといろんな局面に適用されなくてはならない。服部さんの愛人である鈴木麻由美の描写はいい按配で、彼女の心情を伝える描写が少ないことがいい効果を上げているのだが、このテクニックは主人公と黒幕には本質的に適用不可能である。

2001/4/26

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