論争・学力崩壊

「中央公論」編集部・中井浩一編 / 中央公論新社 / 03/03/25

★★★

やはり弱いか

 『論争・中流崩壊』と同じく、「中公新書ラクレ」の、1つのトピックを巡る論争的な文章を集めた企画。このところホットな「学力低下」がテーマで、編者のオーバービューによるとこの論争は1999年に「火がついた」とのこと。しかし冒頭で本のタイトルを「少数ができない大学生」として引用していて(しかも2回)、最初からかなり萎える(第3版の4ページ)。

 『論争・中流崩壊』との一番の違いは、議論のベースとなる実証的研究があまりなく、いきなり政策論争に入ってしまっているという印象を与えることだ。小さいセグメントでの時系列的な変化を調べた研究はそこそこありそうだが、文部科学省の方針のマクロな影響の議論をするためのデータは不足しているように思われる。しかし、この前の「詰め込み教育の弊害」などの議論と比べると、ずっと定量化はしやすい話ではあるだろう。

 収録されているのは、『分数ができない大学生』『小数ができない大学生』の著者ら、『学力危機』の著者2人などの文章。文部科学省の側からは、この問題に関するスポークスパーソンとなっている寺脇研。この人と苅谷剛彦の対談が一番スリリング。この議論には経済学者の参加が必要であると思う。収録されている文章全体の質は『論争・中流崩壊』よりも低い。なお、この読書メモで取り上げている教育関係の本

 ここに来てこの問題に「火がついた」のには、日本経済の低迷を原因とする陰鬱な雰囲気、戦後リベラルの凋落とそれに伴う保守勢力の拡大などの原因が考えられるけれども、「大学教育の大衆化を背景にした詰め込み教育と受験競争(と呼ばれて批判されてきたもの)を体験してきた世代が若者に説教を垂れる年代に達した」というふうに理解するのが一番簡単だと思うので、議論全体になにか悲喜劇的な要素を感じざるをえないのである。今回のブームの前にも議論は行われていたわけだけれども、このように議論が広がり、なおかつ教育の強化を求める声の方が大きく聞こえることの直接的な原因はこの世代交代だろう。本書に収録されている『学力危機』の和田秀樹の文章はわけのわからない内容だが(アメリカの大学教育システムの長所をビル・ゲイツとジョージ・ソロスに代表させるというのは……)、著者本人の動機みたいなものを素直に出しているだけ好感が持てる。

 『教育改革国民会議で何が論じられたか』の項で書いたことだが、社会で成功した人は、自分が受けた教育(またはそれよりも一時期前の教育)を肯定的に評価する可能性が高いと思われる。だから、いま大学の教授とか助教授になっている人たちにこういう議論をやらせたら、文部科学省の「ゆとり教育」路線を否定的に論じるのは当たり前だ。この議論の「学力低下」論者の討論相手としては、「詰め込み教育と受験競争(と呼ばれて批判されてきたもの)を体験して社会的に成功しなかった人」と、「ゆとり教育を受けて社会的に成功した人」が参加するべきなのである。寺脇研は(明示的には述べていないけれども)そのような参加者を募っているように思われ、その態度は正しいと思う。

2001/5/3

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