哲学人

生きるために哲学を読み直す

Confessions of a Philosopher

ブライアン・マギー / NHK出版 / 01/03/25

★★★★★

素晴らしい

 著者は英国の「哲学解説の第一人者」。政治家、TV・ラジオ番組の製作者、ワーグナーの解説者、ポパーの擁護者、大学教員などのさまざまな側面を持つマルチタレント。その人が、哲学の「大問題」に対するアプローチを軸として書いた自伝であり、そのまま西洋哲学の歴史の入門書となっている。人によって好き嫌いのありそうなクセのある本で、多くの同意できない点があるけれども、個人的には長く印象に残る重要な本になる予感がする。

 「オックスフォード派」、あるいは英米的な論理実証主義/分析哲学を、「大問題」を扱っていないという理由で痛烈に批判する部分は、『ダーウィン・ウォーズ』のような業界内幕ものとして面白く読めるが、ユーモアのセンスでくるむ余裕もないその攻撃性は、この著者がすでに一丁上がりしてしまったことの現われなんだろうか(1930年生まれ)。近代的な大陸派哲学と現代的な大陸派哲学の両方が十分な勢力を持っている日本で読むと、この攻撃性はいくぶん過剰なものに見えるかもしれない。日本には、英米とは異なり、大陸派哲学を擁護することの方が守旧的に見えるという事情があり、むしろ分析哲学の側に振る方がバランスがとれるという感じがする。

 著者は偉大な哲学者の原典に立ち戻ることの重要性を繰り返し強調するが、本書の多くの部分は偉大な(また偉大でない)哲学者たちの思想を紹介することに費やされているので、自家撞着を起こしているように見えるかもしれない。しかし、これは自伝と哲学の入門書の形をしたメタフィクション、すなわち文学(アート)なのだということだろうと思う。実際、本書には引用したくなるような名文がたくさんある。翻訳も非常に読みやすいが、もともと名文家のようだ。

 親しく交わり、20世紀最大の哲学者として評価しているポパーに関しては、興味深い記述が多い。上巻201ページより。

私がとても感銘を受け、いまだにその影響が消えないものに、ポパーの論敵の扱い方がある。私は昔から議論が大好きで、年を重ねるうちに論敵の弁明の弱点を特定して集中砲火を浴びせるのが得意にもなった。これは太古の昔からほぼすべての論客が、とりわけ高名な人々までもが例外なくめざしてきたことである。だがポパーは正反対だった。論敵の主張を最大限に強化することに努め、そのあとで攻撃したのである。そればかりか、可能な場合は攻撃する前に、その主張を改善させていた。数ページにわたる事前の議論のなかで、避けられる矛盾や弱点を取り除き、抜け道をふさぎ、小さな欠陥には目をつぶり、相手の主張をできるだけ有利に解釈して、その主張の最も魅力的な部分を、なるべく厳格で強力かつ効果的な論法で明確に述べ直してから、猛襲をかける。成功した場合、これは破壊的な効果があった。最終的に、論敵の主張を擁護しようにも、ポパーがすでに行なった援助と譲歩のほかに言うべきことは何も残されていない……。

 バートランド・ラッセルが第二次世界大戦終了後にソ連への核爆撃を唱えたことに関連して(上巻346ページ)。

これは、やがてラッセルに関する私の最大の留保事項となったものを示す例である。彼は概念や言葉や思想を扱っていたが、それらが言語によらない現実の見地から見た際に何を意味するのかはほとんど理解していなかった。人間的な問題に直面すると、その問題についての正しい感じ方ではなく、正しい考え方を探し、その結果として問題も解決も生身の人間と彼らへの影響という見地からではなく、観念という見地から眺めるきらいがあった。このため、愚かなことを信じたり提案したりすることがめずらしくなかった(愚かな、というのは、生活の実相や、人々の実情や、人々に行なわせたり続行させたりすることが実際に可能な事柄とは接点がない、という意味である)。この事実がとりわけ顕著になったのは、一方的な核非武装をめざして公に活動していた晩年のことだった(私の出会った唯一のソ連への核爆弾投下唱道者が、一方的な核非武装の最も著名な公の主唱者であるのは、私にはさもありなんと思われた)。これを根拠に、ラッセルは年をとって耄碌したと言う者が大勢いたが、実を言えば、その愚かさに年齢は少しも関係がなかった。彼はずっとそんな調子だったのである……。

 1970年代前半の政治的混迷の中で、「右派」と呼ぶべき政治的態度(後のサッチャーリズム)を真剣に意識したときのこと(下巻162ページ)。

当時もその後も、私はこの立場に転向しなかった。それは主に、その独断的な提案に賛成できなかったからであり、このことについてはのちほど詳しく述べるつもりである。それにしても、既成のほかの選択肢に対する右派の批判は恐ろしいほどに印象的だった。社会主義と共産主義に対する歯に衣着せない批判は、まさしく破壊的だったと言っていい。私自身の立場に対する批判も腹立たしいくらいに効果的で、挑戦を突きつけられても、きわめて応じにくいことが何度もあった……(中略)。私への反論にかぎって言えば、右派の力をひときわ強大にする論拠が三つあった。ひとつめは、その知的誠実さ、左派のイデオロギーや偽りの道徳論とは痛快な対照をなす地に足のついた常識だった。ふたつめは、そこから導かれる正真正銘のポピュリズム、いわゆる普通の人々の考え方や価値観、感情、願望への近さで、これは社会主義者たちが求めてやまず、手にしたと勘違いすることもしばしばだったが、けっして手に入れることがなかったものである(社会主義者の多くは、ロンドンのイーストエンドに暮らす港湾労働者たちがイーノック・パウエル支持の行進をしたことに心底驚き、そうした人々の実際の考え方をまったく理解していなかったことを露呈した)。三つめは、提案の生きた例を示す能力だった。それがあるのは合衆国、私が愛し、称賛し、くつろぎを覚えた国である。イェールに在籍したあの年以来、私はこう信じてきた。もしも成人した人間がなんのしがらみもないまま地球に舞い降り、どこで暮らすか決断を迫られたら、合衆国を選択すべきなのは明白だろう、と、実際、アメリカは国外への亡命者が真っ先に選ぶ国ではなかろうか。

 ショーペンハウアーのちょっと奇怪な議論を、有用な比喩として弁護するところ(下巻275ページ)。

……ショーペンハウアーによれば、人間が相互に反応し、相互に関係するのは、人間が隠れた内なる本質ではひとつであり、分離と区分という偽りの見せかけの奥ではひとつであるからだというのだが、これが文字どおりの真実なのかどうか私には知るよしもない。ただし、あたかもそれが真実であるかのように人間が行動することは私にもわかる。それに、そのように認識すると人間の行動に対する理解が深まるのである。ショーペンハウアーの学説は、確かに比喩的かもしれないが、そこには予測の力もある。この説をあたかも真実であるかのようにとらえて人間を観察すると、人間がどう行動するかよくわかるようになる。これは、どんなかたちにしろ何かしら重要な真実がここに含まれているということではないだろうか。そのかたちは文字どおりのものではないかもしれないし、その真実は不完全であるかもしれない。だが、私たちが理解しようとしているのは、つまるところ、哲学ではなく、現実である……。ただし、もちろん、受け入れがたいが啓発的でもある学説が役に立つのは、その学説に照らして現実を見る人にかぎられる。この学説だけを見て、その分析に終始する人は、受け入れがたさしか見出せず、なんの啓発も得られない。

2001/5/17

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