ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ

Hilary and Jackie

Anand Tucker / Emily Watson,Rachel Griffiths,David Morrissey / 1998

これは醜い

 監督のアナンド・タッカーはドキュメンタリーを撮ってきた人らしい。予備知識なしに原題を見ると、夫の不品行に悩む合衆国ファースト・レディーたちの苦労話かと思ってしまうが、実際には多発性硬化症で死んだセロ弾きのジャクリーヌ・デュ・プレの伝記映画である。ただし、ジャクリーヌのきょうだい2人が書いた暴露本をベースにしており、きわめて醜い映画になっていた。

 ジャクリーヌを演じるのはエミリー・ワトソン。その姉のヒラリーを演じるのがレイチェル・グリフィス(『ハーモニー』『マイ・スウィート・シェフィールド』)。原題は、この2人の名前からとられている。原作は、精神的に苦しい状況に追い込まれていたジャクリーヌを助けるために、ヒラリーが夫を提供した(夫にジャクリーヌと寝るように頼んだ)というスキャンダラスなエピソードを暴露したことで話題を呼び、この映画の公開にあたっては音楽界の重鎮たちから抗議の声が上がったという。教訓は、アホなきょうだいを残して先に死ぬなかれ、である。

 この映画は、動き回るカメラがうっとうしいとはいえ、照明と発色はかなり美しく、見た目はそこそこ気持ちよい。その気持ちよい映像の中で、めったに見られないような冒涜的な映画が進行する。

 楽器演奏者だけに限らず、アスリート、俳優、コメディアンなどのパフォーミング・アーティストの伝記映画には、根本的な問題が付随する。その偉大な人物のパフォーマンスを、役者が再現しなくてはならないということだ。このジャクリーヌ・デュ・プレのケースでは、演奏の際の情熱的な体の動きが売りだった人なので、エミリー・ワトソンも頑張って体を揺らしている。しかし、彼女本人はまったくチェロを弾いていない(一部にデュ・プレの音源が使用され、その他はプロの演奏家が演奏している)。そういうネタがバレきっている映像を、真面目に受け取れというのは無理である。別に、楽器演奏者の伝記映画では、役者は必ずその楽器を演奏しなければならないと言っているわけではない。映画では、仮に役者本人が楽器を演奏する、あるいは歌を歌う場合でも、撮影と同時に録音を行うことは一般的ではないわけで、同時録音でない限り本質的に「吹き替え」は行われるのだから。問題は、役者と演奏者の分離が、その情熱的な体の動きと美しい音楽が切り離せないものだったとされるジャクリーヌ・デュ・プレのあり方そのものに矛盾しているということが、エミリー・ワトソンが熱心になればなるほど表面化してしまうことにある。

 この問題のために、エミリー・ワトソンの楽器の演奏場面がすべて白けるという、音楽家の伝記映画としては致命的な結果となった(皮肉なことに、少女時代の演奏場面は良い。また、レイチェル・グリフィスのフルートも悪くない)。映画全体が悪意の固まりであったのに、ジェーン・ホロックスの才能がそれを撥ね返していた『リトル・ヴォイス』と正反対の極だといえよう。

 衰弱していくジャクリーヌを描くシーン(実際には映画の半分以上)については、「死人に口なし」という格言が脳裏に浮かんだ、以上の感想はない。まあ「自業自得」である可能性はあるとはいえ、生前どんなに鬱陶しかった奴でも、こういうふうに扱われる言われはないだろう。

2000/10/10

IMDBの該当ページへ

検索ページへ 目次へ 前へ 次へ