エイミー

Amy

Nadia Tass / Alana De Roma,Rachel Griffiths,Ben Mendelsohn,Nick Barker / 1997

★★★★★

これは参った

 オーストラリア映画。監督のナディア・タスにはいくつかの作品があるようだが未見。ロック歌手の父親を事故で亡くした少女エイミーが、ショックのあまり耳が聞こえず、口がきけなくなるのだが、近くに住んでいた落ちこぼれミュージシャンの歌声を聴いて、歌に反応し、歌を歌えるようになるという下町人情ものミュージカル。これがまた一筋縄ではいかない奇怪な映画であった。

 エイミーを演じるのはアラーナ・デ・ローマという女の子。母親にレイチェル・グリフィス(『ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ』『ハーモニー』『マイ・スウィート・シェフィールド』)。いままでに見たなかで一番魅力的。というよりも、一番まっとうな役を貰っているというべきか。落ちこぼれミュージシャンはベン・メンデルスゾーン(『ハーモニー』)。かっこいいだけでなく、歌もうまい(少なくとも一部は自分で歌っているようだ)。

 この映画の奇怪さは、これをミュージカル映画にするという強い決意から生じている。今回、この奇怪さがやたらに引っかかったので、インターネット上でこの映画をレビューしているページを探したのだが、ほとんどすべてのレビューアー(日本人とそれ以外を含む)がこの奇怪さに生理のレベルでは引っかかっていても、それを言語化できないでいる。その意味で、映画作者の意図は「失敗」していると言えると思う。ただそれは、『リトル・ヴォイス』のように悪意ある意図ゆえの失敗ではなく、観客に対するコミュニケーションの失敗である。まあそういうわけで、以下では映画作者の決意を言語化してみる。ネタバレなので、まだ見ていない人は読まないようにすることをお勧めする。

 この映画が音楽映画ではなくミュージカル映画であるということは、次のことからわかるだろう。1) エイミーはやたらに歌が上手であるが、誰もそのことを指摘しない、2) 母親とエイミーは歌を使って意思疎通をしない。

 まず1)について。エイミーを演じるアラーナ・デ・ローマは、その歳の割りには非常にませたブルース的な歌い方をマスターしていて、まあ要するに非常に「うまい」。これは、幼い頃のジュディ・ガーランドのような「うまさ」である。ジュディ・ガーランドと同等の歌唱力があるということではなく、ませているがゆえの「気持ち悪さ」が共通しているのだ。レビューアーの多くは、非常に素直に「上手すぎる」という苦情を述べていたが、これはたとえば『オーケストラの少女』の主演をディアナ・ダービンが獲得したこととの延長にある現象で、この映画の作者はあえてディアナ・ダービンではなくジュディ・ガーランドを選択したということになる。

 父親が死んで以来、言葉をまったく発することができなくなった少女が、3年間も口を開かないでいながら、ある日いきなり声を出したというような設定で、その少女が上手に歌を歌うことすら不自然なのに、それが1万人の1人いるかどうかという感じの「うまい」歌だというのはきわめて不自然である。が、この映画の奇怪なところは、この「うまさ」をストーリーの駆動要因としてまったく使っていない点にある。これだけ歌がうまければ、隣の兄ちゃんとバンドを組み、父親のバンドと契約していたレコード会社が大々的なプロモーションを展開して大成功する、というようなストーリーを展開しても不自然ではないのだが、映画の中でそういうことは起こらず(せいぜい地下道で小銭を稼ぐだけだが、彼女の前で誰一人として足を止めないことがそもそも不自然だ)、映画が終わった後もそういうことが起こりそうな感じはしない。つまり、この映画では、彼女の歌の「うまさ」は認識されていないと考えるべきなのである。これは、典型的なミュージカル映画で、単なる水兵さんが港でやたらにうまい踊りを披露しても誰も不自然に思わず、しかも、その踊りがうまいということを誰も認識していないというのと同じである。

 2)について。この映画の中で、母親のレイチェル・グリフィスは、1回だけ娘に歌いかける。それは、ベン・メンデルスゾーンから「娘さんが歌うのを聴いた」と聞いて、信じられないながらもおそるおそるエイミーの反応を期待して歌いかける場面だ。結局、この歌いかけは失敗し、エイミーは何の反応も示さないのだが、その夜、家の外でエイミーが"You & Me"のサウンドに合わせて歌っているのを聴いて、彼女が本当に声を取り戻していたことを知る。しかし恐ろしいことに、この後も、レイチェル・グリフィスがエイミーと歌を通して意思疎通をする場面は1回もないのである。母親は、歌を通してのコミュニケーションが可能だということを喜ぶよりはむしろ、普通に会話ができないことを致命的な欠点と考えて、心理学者巡りをする。

 これは、少なからずのレビューアーが期待し、その期待が満たされなかったことに不満を抱いた、「普通に盛り上がるミュージカル場面」が欠如していることとパラレルな仕掛けである。映画にそういう場面がない以上、娘が歌によるコミュニケーションができるようになった後も、母親は娘と声を通じてのコミュニケーションができなかった、と考えざるをえない。エイミーは児童心理学者や近所の人々と交流はできても、母親とは交流できなかったのである。母親との真の交流は、最後のクライマックスに至るまでは実現されなかったのであり、最後のシーンでみんながあれほど喜んでいるのは、行方不明になっていたエイミーが見つかったからではなく、母親と娘のコミュニケーションがようやく実現したからなのだ。

 この2つのかなり抽象的なシンボル操作を、映画として表現することに失敗していることは、ほとんどすべてのレビューアーがこれに気づかず、違和感を表明するに留まっていることからもわかる。しかも少なからずの人が、この違和感を生じせしめた上記の2点を、映画製作上の失敗として認識している。が、私としては、この2点はこの映画の最初からの前提であったのであり、この2つの要素が存在することが失敗なのではなく、これが意図的なシンボル操作であることをわかりやすい形で提示しなかったことが失敗なのだと確信している。それは鈍い観客に迎合する必要はないという開き直りなのかもしれないが、そうだとしたら『陽だまりの庭で』にも匹敵するような悪意である。

 なお、この映画で、エイミーを演じるアラーナ・デ・ローマが発する唯一のまともなセリフ、最後の"Thanks for looking for me everyone"の棒読みぐあいには驚愕した。その歌の表現力とは裏腹に、セリフ回しはあまりにも大根。なお、オーストラリアを舞台にしたオーストラリア映画なので、Amyは「アイミー」と呼ばれている。

2000/10/20

DVDメモ。日本版。

予告編、アラーナ・デ・ローマと監督のインタビュー。

 撮影時よりもほんの少し成長したアラーナ・デ・ローマの姿を見ることができる。別にそれがどうだというわけではないが。

2000/11/7

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