レッド プラネット

Red Planet

Antony Hoffman / Val Kilmer,Tom Sizemore,Carrie-Anne Moss,Terence Stamp / 2000

根本的なところでだめ

 監督のアントニー・ホフマンはこれがデビュー作。火星探検をテーマにしたSF映画。西暦2050年、地球が環境汚染でやばくなったため、人類は火星のテラフォーミングに望みをかけていた。藻類を火星に送りこみ、酸素を発生させるという計画が進行していたが、それがうまく行っていないようなので、史上初めての有人の火星探検が行われる、という話。

 この映画、★1つという評価にしているが、本来ならばわざわざそんな極端な点数にする必要もないどうでもいい映画である。しかし、同じ初めての火星探検をテーマにした『ミッション・トゥ・マーズ』に★2つという評価を与えてしまった経緯がある以上、相対的には★1つにせざるをえない。

 この映画を見ていて、いくつかのことを深く考えさせられた。(1) SF映画の脚本のレベルのこと。私はハードSFのファンであり、科学的に正しいバックグラウンド設定には当然ながら好感を持つが、映画に関する限り、かなりの妥協をする用意がある。信じがたい事柄をそれっぽく見せてしまうことこそが、映画の魔術なのである。しかしこの映画は、一見してシリアスな物語をシリアスなプロダクションで語ろうとしていることもあって、その許容範囲を大幅に超えていた。(2) 人物造型のこと。英語でいうとcharacter development。私はcharacter developmentという概念をそれほど重要視していない。特に、character developmentがない映画や、登場人物に感情移入ができないような映画はダメであるという発想には強く反論する。しかし本作は、やはり映画にはcharacter developmentが必要だということを改めて知らしめてくれるほど、人物に深みが欠如していた。ニワトリと卵の関係だが、それらの人物が織り成すドラマの緊張感の欠如もはなはだしい。この2つの点からして、本作はその重厚な外見と高度な特撮にもかかわらず、たとえば『ユニバーサル・ソルジャー』が深遠な映画に思えてしまうほど浅薄な印象を与えていた。

 SF的設定の奇怪さは語りだせばきりがなくなるのだが、とりあえず1つだけ。主人公たちが乗っている宇宙船は、火星の軌道上で太陽フレアに襲われて故障する。そのせいで、船長のキャリー=アン・モスがひとり宇宙船に残り、他の乗組員は着陸船で火星に不時着することになる。ところで、この2050年に火星を目指す初めての有人宇宙船として設計された宇宙船の天井には、今日の家庭のヒューズ・ボックスにあるようなスイッチがたくさん並んでいる。そして、宇宙船が太陽フレアに襲われていることに気づいたキャリー=アン・モスは、「早く電源を落とさないと宇宙船のシステムが壊れてしまう!」みたいなセリフを言いながら、必死になって天井に並んでいるスイッチを1つずつパチパチと切っていく。しかし残念なことに、この手動の緊急時手順が間に合わなくて、システムのいくつかのサブモジュールは故障してしまう。映画が始まってから10分ぐらいの、クルーを火星の地上と軌道上に分けるというストーリー上きわめて重要な分岐点で、船長としてのキャリー=アン・モスの責任感を描写するための重要な場面である。

 しかしそれ以前に、(たぶん)無人ロボットを送り込んで建設していた火星上の基地が破壊されていたことが、地球からはもちろんのこと、軌道上の宇宙船からもわからなかったという、ストーリーの根幹に関わる大問題があることを考えると(せっかく建設した施設に、テレメトリー機能も通信設備もまったくなかったことになる)、宇宙船のマン・マシン・インターフェイスがこういう凄いものになっているのは、人類の科学技術と知性の衰退、あるいは少なくともNASAの予算の極端な削減というバックグラウンド・ストーリーがあることを示しているのかもしれない(ロボットのAMEEは海軍から借りてきたという説明があった。しかしAMEEにもリモート・コントロール装置がないという大きな問題がある。音声コマンド方式だから不要だという説明には説得力がない。風が強いときとか、遠く離れているときにどうやって指令を発すればよいのか!?)。いずれにせよ、上記の場面にドラマとしての説得力がないということに気づかないのは、映画的感性の決定的な欠如を意味している。

 人物造型とドラマについても語りだせばきりがないが、1つだけ。この映画では、お約束として、ヒーローとヒロインを残してクルーが一人ずつ死んでいくのだが、どの死もまったく感動的ではない。私は、映画の中での人の死は重大なことであり、それなりの敬意を払うべきだという保守的な考え方に捕われている。もちろん「無意味な死」という意味を与えるのも、敬意の払い方の1つである。しかし、本作の登場人物たちの死はもっとも本質的な意味で無意味かつ無駄であり、最後に主人公のヴァル・キルマーを一人だけ残すという目的に向かって、ほとんど義務のように1人ずつ頭数を減らしていっているように見える。

 『ミッション・トゥ・マース』では、ローヴァーにKAWASAKIのロゴがあったが、本作では宇宙服にTOSHIBAのロゴがある。酸素ボンベがどこにも見えない動きやすそうな宇宙服で、酸素の持続時間がやたらに中途半端なだけでなく、超短距離無線を除いて、そういう宇宙服にあってもおかしくなさそうな科学技術装置がいっさい装着されていないシンプルな服だ。何か化学的プロセスで酸素を発生させているのならば、着脱式ユニットでいくらでも持続時間を延ばせるようになっていてもおかしくないと思ったことだった。

 ヴァル・キルマーとキャリー=アン・モスに加えて、トム・サイズモア、テレンス・スタンプなどが出演しているが、いずれも非常に弱い。テレンス・スタンプは中学生が書いたようなセリフを言わされている。キルマーとモスのロマンスは失笑もの。

2001/1/23

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