ゴースト・ドッグ

Ghost Dog: The Way of the Samurai

Jim Jarmusch / Forest Whitaker,Henry Silva,Tricia Vessey / 1999

★★

下手うま指向、ということなんでしょうね

 ジム・ジャームッシュ監督作品。フォレスト・ウィテカーが『葉隠』を自らの信条として生きる「ゴースト・ドッグ」という名の殺し屋を演じるオフビートなフィルム・ノワール。

 これは私が歳をとったせいなのだと思うが、映画がジャン=ピエール・メルヴィルや鈴木清順の真似をしようとしているという理由「だけ」で喜ぶことはできなくなってしまった。しかし、これは飽くまでも個人的な事情に過ぎず、これらの映画のリメイクを20世紀末にひっそりと作ってはならないという断固たる理屈を持ち合わせているわけでもないから困るのである。

 とりあえず良かった点。これは、ミニマリスト的なヒップ・ホップ/トリップ・ホップを、フィルム・ノワールのモダン・ジャズと同じように使っているのを見た初めての映画だった。ちなみに『チャーリーズ・エンジェル』は、ハードコアなロックを「お気楽アクション」に使っているのを見た初めての映画だった。私にとっては『チャーリーズ・エンジェル』の方が意外性が高いのであり(しかしKORNのミュージック・ビデオがお子様向けファンタジーみたいになっていることあたりから気づくべきだったのだが)、もともと私がヒップ・ホップを気に入るのは、マイルス・デイヴィスの後期の作品の静謐さを連想させるときなので、そこからフィルム・ノワールを連想するのは自然な流れではある(ちなみに後期デイヴィスの音楽を見事に使っているのは『NYストリート・スマート』)。次の一歩は、ホラー/スプラッター映画への適用。Wu-Tang Clanの音楽が流れ続けるホラー映画が成功すれば、ダリオ・アルジェントとGoblinが確立した「ホラーにはプログレ」という文化が一気に革新されるかもしれない。

 イタリア人マフィアがPublic Enemyのファンだ、古いアニメばかり見ている、家賃を滞納している、屋上まで登ると息切れするといった設定。ゴースト・ドッグがフランス語しか話せないハイチ人のアイスクリーム屋と友人関係にあり、互いに喋っていることがわからないのに妙に内容が一致する、などのストーリー上のギミックは、人工的であるだけでなく、くどすぎるように思う。このあたりは、ミニマリストな指向を持ちながらもそれに徹し切れない弱さなのだろうか。もっと悪いことに、そういうギミックの提示のしかたが映像としてスタイリッシュでない。ここの部分を「オフビート」と言うのは言い訳で、単に「ギャグがすべっている」と表現するべきだと個人的には思う。

 この中途半端さは逆の方向にも現れていて、かっこよくてしかるべきところがあまりかっこよくない。特に映画の終わりの方で、ゴースト・ドッグが反撃する一連のシーンが、その理由はよくわからないものの、スリリングでない。たぶんちょっとした編集上の微妙なタイミングのずれなのだと思うが、ライフルに鳩がとまるシーケンスには詩情がなく、屋敷に入るために不動産エージェントのふりをするところのフォレスト・ウィテカーはなんだかがっかりするような表情で(ここだけリアリティの追求という観念に妥協した?)、屋敷に入ってからのアクションには驚きがない。鈴木清順のキッチュさやメルヴィルの渋さにまで到達せよとは言わないけれども、もうちょっと何とかならないものだろうか。これに限らず、かっこよくてしかるべきいくつかのアクション・シーンは、ゴースト・ドッグが単に夜の街を車で走っているシーン(より正確にはその背後で流れるRZAの音楽)に格負けしているように感じられた(ただし、窓ガラスにテープを貼り付けて、そこを通して銃を撃つところは良かった。ここのところのかっこよさが、それ以外のかっこ悪さが決して意図したものではないと推測する根拠となっているんだが)。

 もちろん、これは全体としてそういうのを追求する「下手うま」的アプローチの映画なんだろう。タランティーノやベッソンよりは正しいが、これではイーストウッドのような偉大さには決して到達できないだろう。『ダウン・バイ・ロー』あたりでは、後者のように進化する可能性もあるかも、と思っていたのだが、あくまでも「タランティーノやベッソンを克服する」というせこい目標を掲げているように見える。「なんでまた、そんなことしたいの?」と問いたい気持ちだ。

 と、ここまで書いてから、web上の個人ページに掲載されている、この映画に関するさまざまな感想文を読んでみたのだが、やっぱり感動している人が多いようだ。私が抱えている問題は、この映画の過剰なところを楽しめず、不足ぎみのところを不満に思うという点にあるのだと思われる。この『ゴースト・ドッグ』を見て感動した人が、メルヴィルの『サムライ』(1967)と清順の『殺しの烙印』(1967)を見てなお『ゴースト・ドッグ』の過剰さと不足分を好意的に評価できるのだとしたら、私の感性の方が時代遅れであるということになるんだろう。メルヴィルの映画ではついでに『いぬ』(1963)、『ギャング』(1966)、『影の軍隊』(1969)(これが一番好き)、『仁義』(1970)あたりを見ておくとよい。清順の映画ではついでに『野獣の青春』(1963)、『刺青一代』(1965)、『東京流れ者』(1966)あたり。ついでに森一生の忍者もの、岡本喜八のハードボイルド、そして「お勧め映画、第5回、日活プログラム・ピクチャー篇」で紹介している一連の日活アクションのうちの、ヌーベルバーグ的なハードボイルドに分類されそうなもの。

 念のために書いておくが、どのような映画でも、このような過剰さと不足が気に入らないというわけではない。メルヴィルと清順の真似をしていることが明らかな映画で、このようなアプローチをとるというその態度がわからないということだ。これはたとえば、ときどき見掛ける文学指向のハードボイルド小説を読んだときの違和感に似ている。先人たちが、余分なものを削ぎ落としながら必死になって確立してきた文体に、削ぎ落とされたものを追加したいのであれば、それ相応の工夫が必要である。うーむ、やはり頭が固すぎるのだろうか?

2001/1/30

IMDBの該当ページへ

検索ページへ 目次へ 前へ 次へ