ザ・ハリケーン

Hurricane, The

Norman Jewison / Denzel Washington,Vicellous Reon Shannon,Deborah Kara Unger,Live Schreiber,John Hannah,Clancy Brown / 1999

★★★

ちょっと後半に難があるが

 ノーマン・ジュイソン監督作品。冤罪で20年近くも投獄されていた黒人ボクサー、ルービン・「ハリケーン」・カーターの実話をもとに作られた伝記映画。公民権運動の盛り上がりの中で、再審を求める運動が全国的に広がり、ボブ・ディランが彼をテーマにした曲を作るなどの盛り上がりを見せたものの、時が経つにつれてその熱が収まったころに、トロントの活動家グループが「遅れてきた支援者」として彼を助ける。

 この映画、活動家グループがルービン・カーターの支援に乗り出すまでの部分は実に素晴らしい。カーターが刑務所に入るまでの経緯を描いている部分、活動家グループに引き取られた黒人少年が彼の存在を知って手紙のやり取りをするところなどは、カーターを演じるデンゼル・ワシントンと黒人少年を演じるヴィセラス・レオン・シャノンの入魂の演技もあって完璧に近い出来だ。ところが、この2つのプロットが合流して、カーターの再審を求める活動が始まるあたりから、映画の質が一気に低下する。この落差はおそらく、この物語のベースとなっている「実話」のこの部分の映画のなかでの位置づけが、脚本と監督のレベルでちゃんと決まっていないせいで生じているものと思われる。

 Robert Ebertのレビュー(『Roger Ebert's Movie Yearbook 2001』に収録)から、この映画の公開前日のNew York Times紙に掲載された記事の概要を孫引きしておく(翻訳は私による)。

New York Times紙のためにこの訴訟の経過を追ってきたSelwyn Raabによると、[カナダの活動家グループは]実際にコミューンだったという。『ザ・ハリケーン』のニューヨークでの公開前日に掲載されたRaabの記事は、この映画で描かれている事実に少なからずの間違いがあることを指摘している。彼によると、カーターの弁護人たちはカナダ人たちよりもはるかに大きな貢献をした。カーターは因縁の深い1人の刑事によって嵌められたのではなく、システム全体の犠牲者であった。カーターの共同被告、ジョン・アーティス(ガーランド・ウィット)は、映画に描かれているよりもずっと重要な役割を果たした。犯罪に関連する事実と証拠には脚色が加えられている。カーターは後にアンガーが演じている人物[カナダ人女性]と結婚したが、その後離婚した。レズラ[黒人の少年]は、彼の人生をあまりに支配しようとしていると感じて、後にコミューンを離れた。

 その後、このレビューでは、映画はすべて脚色されるのであり、事実と異なる点があるということが映画の欠点にはならないと述べ、この映画に4点満点の3.5点を与えている。しかしアメリカでは、本作が事実を歪めているということにとどまらず、カーターが本当に犯人だったのではないかという(おそらくはかなり的外れな)臆測も含めた議論が活発に行われたようだ。ちなみに上の記事とはまったく逆に、もっぱらカナダ人の側から、この映画ではカナダ人活動家たちの貢献が十分に描かれていないという批判もあるらしい。いずれにせよ、日本でもときどき起こることだけれども、これは善意で行った人権擁護活動が、完全なハッピー・エンディングを迎えなかったというケースの1つであるらしい。

 私は、事実をもとにしたとされる映画の事実からの逸脱の評価はケース・バイ・ケースで判断すべき事柄のように思うから、「逸脱がすなわち映画の欠点とはならない」という考え方に賛成するけれども、少なくともこの映画では、この逸脱(あるいは逸脱の不足)が後半の出来の悪さに直結しているように思う。たとえば、本作では、カナダ人活動家たちが行った貢献が説得力をもって描かれていない。もちろん、刑務所の向かいに引っ越してきて、証拠を探してまわるというシーンがあるけれども、このシーンに費やされている、時間を含む映画のリソースは、それまでに費やされてきたリソースと比べて格段に少ない。その結果、映画の前半で慎重に作り上げられてきた、カーターが刑務所で過ごしてきた十何年分かの時間の意味が損なわれる。それだけでなく、再審の申請を上位裁判所に対して行うというカーターの博打の意味と、その背後にあるもろもろの心情に現実みがなくなっている。だから、クライマックスとなる裁判所のシーンは、ロッド・スタイガーの存在感によってかろうじて保っているという惨状を呈するにいたった。

 これは、カナダ人活動家たちがこのケースに積極的に関与するようになってからのストーリーを脚色するにあたって、事実から完全に離れることもできないが、実際の経緯を細かく描くと退屈になる、あるいは映画の企画のそもそもの方向性と衝突するという板挟みの状態から生じた中途半端さなのだと推測する。もちろん、時間配分の計算の失敗でもあるだろう。いずれにせよ、中盤からクライマックスに向けての展開が、それまで築き上げてきたものを壊してしまうという可能性に気づかなかったのはたしかだと思われる。カナダからやってきた4人の男女がちょちょちょいと調査をした結果として無罪放免となってしまったら、それまでのカーターの苦労はいったい何だったんだ、ということにならざるをえない。

 別の方向から見れば、この映画には、カーターを支援するカナダ人活動家たちが、共同生活をしている男2人と女1人のグループである物語上の必然性がない。そして物語上の機能をほとんど持たないこの3人に、デボラ・アンガー、リーヴ・シュライバー、ジョン・ハンナという「中量級曲者役者」を持ってくるのはオーバースペックである。私はいろいろと余計な想像をしてしまった。

2001/1/30

IMDBの該当ページへ

検索ページへ 目次へ 前へ 次へ