江分利満氏の優雅な生活

江分利満氏の優雅な生活

岡本喜八 / 小林桂樹,新珠三千代,東野英治郎 / 1963

★★★★★

大傑作

 岡本喜八の1963年の作品の10回目ぐらいの再見。「お勧め映画、第6回、コメディ映画篇」の最後の方にちょっと書いたように、私はこれが『ああ爆弾』(1964)に続く岡本喜八の代表的傑作だと思っている。今回久しぶりに見て、本作の魅力は2001年の現在でも通用するという確信を持った。

 昔はあまり気づかなかったけれども、これはかなり奇怪な映画だ。直木賞を受賞した山口瞳の同タイトルのエッセイ集の映画化なのだが、映画の中ではそのエッセイを書いた江分利満(山口瞳のオルター・エゴ)を主人公に据え、その人が直木賞を受賞するところも描くという入れ子構造になっている。そもそも山口瞳のエッセイは、山本夏彦、椎名誠、中島らも、泉麻人などの系譜に連なる(このリストにはかなり異論があると思うが)日常派ボヤキ・エッセイで、それが人気が出たから映画化しようという企画だったということを考えると、この映画の奇怪さがいっそう鮮明になるだろう。

 エッセイの内容は映画の中で江分利満が若手社員相手に語っているような素朴なものだが、岡本喜八はこれらを素材として使っているだけで、映画全体のトーンは彼が後に『肉弾』(1968)などで傍目を気にせず押し出してくる「最後の戦中派」世代の心情を中心としている。もともとこの江分利満と岡本喜八は同年代で(江分利満は大正14年または15年の生まれだが、岡本は1924年生まれ。終戦時に予備士官学校から復員した)、それまでのコミカルなトーンから一転するクライマックスのシーンは、山口瞳/江分利満よりも岡本当人の心情の吐露なのだと思われる(後に彼は、このシーンのテーマを『英霊たちの応援歌』(1979)という映画に発展させている。ただし出来はあまりよくない)。

 2001年の現在でも、この映画の編集のテンポの良さ、構図の選択の的確さ、コミカルなエピソードの挟み方などは一級品といえると思う。特にオチのつけかたの微妙なバランス感覚がよく、クライマックスの後、朝帰りをする若手社員たちに何のセリフも喋らせないところなどは実に「モダン」である。このモダンさは、70年代以降は岡本喜八という映画作家だけでなく、日本映画全体からも失われていく。

 江分利満を演じる小林桂樹にとって、これは一世一代の名演技だろう。岡本喜八の微妙なコメディのセンスに裏打ちされていない他の数多くの喜劇の中では、この映画でいくぶん距離を置いて見つめられている小林桂樹のくどさがそのまま写し出されてしまって見るに耐えないものが少なくない。妻を演じる新珠三千代は標準的ではあるが、クライマックスで手紙を読むシーンは凄味のある見せ場だ。父親を演じる東野英治郎は、これに類した人物像を何度となく演じているが、本作での描かれ方には鬼気迫るものがある。その他、岡本映画に多く起用された名脇役たちにもそれぞれ見せ場がある。

 この映画で語られている主張や心情は、いまとなっては完全に過去のものとなってしまった。もちろん1963年の時点で、主人公の江分利満は日本人が(特に戦後世代が)戦争を忘れていると嘆いているのだからとうぜんのことなのだが、2001年のいま、江分利満が76歳で、彼がコミュニケーションできなかった戦後派の若手社員も65歳ぐらいにはなっているわけだ。念の為に解説しておけば、江分利満は最後の戦中派であるのに対し、若手社員たちは安保反対運動世代。いまの時代で考えれば、バブル期を体験したオヤジが若者の学力低下から予想される日本経済の凋落の見通しを嘆いているようなものだ(嘆きの内容はまったく違うけれども)。ただしその意味では、本作は1963年という時期に作られた映画にしては「時代に迎合していない」レトロな題材を、きわめてモダンな作風でコンテンポラリーな人間にも消化しやすい形で提示しているものだと言えると思う。

2001/2/23

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