センターステージ

Center Stage

Nicholas Hytner / Amanda Schull,Peter Gallagher,Donna Murphy,Ethan Stiefel / 2000

★★★★

正しいのだが完璧ではない

 ニコラス・ハイトナー監督作品。前作の『私の愛情の対象』ではダンスをうまく使っていて好印象だったが、本作は完全なダンス映画。

 本作はいくつか大きな間違いを犯しているが、根本的に正しいダンス映画である。『リトル・ダンサー』という邪悪なものを見た後だけに、この映画を観られたことは大いなる喜びだった。その正しさとは何かというと、ダンスを美しく撮ることに集中していること、そしてクライマックスのダンスの演目によって映画に説得力を持たせるという古典的なバックステージものミュージカル映画の構成をとっていることである。

 間違いは、この映画の企画の根本に関わるものだ。SPEの公式サイトによると、主人公を演じるアマンダ・シェルは、脚本に書かれていたのと似たような欠点を持っていたがゆえに起用されたということらしい。要するに、この人はあまり踊りがうまくないのである。パフォーミング・アートの「成長もの」の映画が抱えるジレンマは、映画の中でその人のパフォーマンスが上手になっていく過程を描くのが難しいというところにある。それでも普通はなんとかそれを試みるものだが、本作における解決策は、「主人公は最後まで成長せず、別の道を選ぶ」というものだった。

 ちょっと映画とは離れてダンス論になってしまうが、本作のクライマックスでアマンダ・シェルが踊るダンスは、現代的な味つけのモダン・ダンスというようなものだった。一般論として、そのようなダンスはつまらない。本作のようにクラシカルなバレエの修練を積んだ人が踊る場合はまだ見られるものになることがあるが、そうでない人の場合はかなりの確率で失敗する。そして少なからずの場合、そのようなコレオグラフィーを選ぶのは、本作の主人公のアマンダ・シェルが遭遇した状況そのもの、つまり、クラシカルなメインストリームのバレエの世界で生きていくだけの力量がないためなのだ。この映画のラストで演じられる2つの演目、「アメリカン・バレエ・カンパニー」という架空のバレエ団によるピーター・ギャラガー振り付けの「古典的」演目と、「クーパー・ニールセン・カンパニー」によるイーサン・スティーフェル振り付けの「モダン」な演目が、同じ日に日本で上演されたとして、どちらを見に行くべきかというと、たぶん前者である。

 誤解をしないでいただきたいが、私はクラシカルなバレエよりもモダンなバレエの方が好きである。クラシカルなバレエには伝統芸能が直面する限界がもろに表れていると思うし、モダンなバレエの方がずっと文化的意義があると思っている。ただ、映画の比喩でいえば、「ちゃんとした照明を当てる力量がないから荒れた感じの画面にして「リアリティ」を出す」とか、「演技ができないから単調なセリフ廻しをさせる」みたいな、結局は逃げているのに抽象的な理屈を付けて言い訳をしている、という感じのものが多いのだ。そういうものが失敗したときに与える疲労感は、出来の悪い通俗的な映画よりもはるかに大きい。それと同じように、「革新的で意欲的な実験的ダンス」の失敗したのを見ていると、大昔から同じことをやっていて、とりたてて見るべきところもない普通の『白鳥の湖』の方がずっと良いと思う。もちろん、革新的な実験作が成功しているときの感動は至福である。最近ではイリ・キリアンのNDT、Pilobolus、勅使川原三郎などの演目では文字通り魂が揺さぶられるような思いをした。でも、これは稀にしかないことなのである。

 本作のオチの付け方は、そのような失敗する実験作がどのように出来上がるかを示してくれている。「下手な人がモダンを踊る」のである。

 実際のところ、この映画の各種のダンス・シーンの出来具合いそのものがこの事情を明確に示し、映画のオチの説得力を損なっているように思う。この映画で一番良いのはイーサン・スティーフェルによるケネス・マクミランの『ロミオとジュリエット』とジョージ・バランシンの『スターズ・アンド・ストライプス』、その次に良いのはピーター・ギャラガー振り付けで黒人のゾーイ・サルダナが踊るナンバーで、イーサン・スティーフェル振り付けのナンバーは一番出来が悪いように思うがどうだろうか。実際、この映画の『ロミオとジュリエット』と『スターズ・アンド・ストライプス』は標準的なバレエ・ビデオ以上の出来で、カット割りを最小限に抑え、カットを割るときには構図に必然性を持たせ、映画用に照明を当てている配慮の行き届いた名シーンとなっている。『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』の音楽のシーンがそこらのミュージック・ビデオよりも質が低かったのと対照的だ。

 ワークショップでのピーター・ギャラガーの演出作品は、いちおう古臭い振り付けとして位置づけられている。しかし、ゾーイ・サルダナの踊りがきわめて良いこともあって、古臭いスタイルの(しかしコンテンポラリーな)踊りとしてはかなり高レベルである。このゾーイ・サルダナはプロフェッショナルなダンサーではなく役者出身らしいが、姿勢が美しく、レッスンの場面なども含めて非常に良かった。

 そしてイーサン・スティーフェル振り付けのナンバーは、あまり出来のよくないブロードウェイ・ミュージカルの一幕のように見えた。それをさらに悪くしているのは、細かいカット割りである。本作では、ステージ上の演技だけでなく練習風景でも、クラシカルなナンバーとモダンなナンバーでカット割りを変えている。クラシカルなナンバーは古典的なミュージカル映画のように長回しを主体とし、モダンなナンバーはMTVのような細かいカット割りで「ダイナミズム」を出そうとしている。これがシーンを台無しにしてしまうことがどうやらわかっていないようだ。そしてそのようなテクニックを使ってでさえも、主役のアマンダ・シェルの踊りには大した魅力が感じられない。

 まあそういうわけで、本作は正しい道を選びながらも、いくつかの大きな間違いを犯している映画なのである。

 イーサン・スティーフェルはアメリカン・バレエ・シアターのプリンシパルだが、役者として十分に通用する。この人の踊りは、練習風景も含めて、やはり圧倒的に美しい。その対抗馬の役割を与えられているサシャ・ラデッキーも踊りは素晴らしい。『リトル・ダンサー』の示唆するところとは違って、この2人は完全なるヘテロセクシャルであり、そのダンスにsissyなところは微塵もない。上で述べたように、黒人ダンサーのゾーイ・サルダナは役者出身とは思えない身のこなしで、この人が踊るバレエを実際に見に行きたいと思ったほどだった。そのパートナーとなるロシア人のイリヤ・クーリックはフィギュア・スケートの人で、ちょっと意味不明。キツめの少女を演じるスーザン・メイ・プラットの印象が良かったのには驚いた。今後注目。そして、この映画のピーター・ギャラガーはベストの部類である。

2001/12/8

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