小さな目撃者

Do Not Disturb

Dick Maas / William Hurt,Jennifer Tilly,Francesca Brown,Denis Leary,Michael Chiklis / 1999

★★★★★

傑作サスペンス

 オランダ映画。監督のディック・マースの作品を見るのはこれが初めて。原題は"Do Not Disturb"だが、アメリカでは"Silent Witness"というタイトルでビデオ化されている。映画の中ではホテルのドアノブに"Do Not Disturb"のサインがかかっているところが大写しにされる。

 ウィリアム・ハート、ジェニファー・ティリー、デニス・リアリーという主演格3人の顔ぶれからわかるように、これはオランダ人が監督した、オランダのアムステルダムを舞台にしたオランダ資本のアメリカ映画である。製薬会社に勤めるウィリアム・ハートが、妻のジェニファー・ティリーと娘のフランチェスカ・ブラウンを伴って社用でアムステルダムを訪れる。唖者であるフランチェスカ・ブラウンはひょんなことでホテルから閉め出され、殺人現場を目撃して、殺し屋に追いかけられる。デニス・リアリーは、逃亡の途中で知り合う浮浪者を演じている。

 非常にうまく作られているサスペンス映画であり、私は心の底から楽しんだのだが、IMDBを見ると4.8という惨憺たる点数になっている。本作のちょっとひねくれたところが嫌われているということなのだろうか。上にこれはアメリカ映画であると書いたけれども、これは単なるアメリカ映画ではなく、1940〜50年代ぐらいのアメリカ映画の真似なのだ。具体的にはフリッツ・ラングとかアルフレッド・ヒッチコックとかビリー・ワイルダーあたり。生っ粋のアメリカ人でない例ばかりを挙げたのは、おそらく監督のディック・マースも、自分自身をヨーロッパ出身のアメリカ映画製作者として位置づけているだろうからである。

 「ヒッチコックの後継者」と呼ばれる人にはだいたいロクなのがいないけれども、本作はヒッチコック作品の真似をすることに見事に成功している。これには、(1) 外国人が全員が英語を喋る、(2) セットが(現在から見れば)不自然、(3) セリフのアテレコが(現在から見れば)不自然といった特徴までが含まれる。特にセリフ廻しの不自然さは現代的なアメリカ映画の中に置いてみると相当目立つので、これがチャチな映画という印象を与えるのに貢献したのだと思われる。一方ポジティブな特徴は、(a) 映像化を前提にして論理的に練られた脚本、(b) 丁寧な照明、(c) 構図重視できれいに動くカメラ、(d) 少々毒の入ったユーモア感覚といったところ。照明はリアリズム指向ではなく、まさに1940〜50年代あたりのハリウッド映画の職人的な室内照明を目指している。カメラの動きはきわめてヒッチコック的で非常に魅力的だ。音楽は必ずしもバーナード・ハーマン風ではないが、使い方はよく似ている。

 このような古典的な枠組みに、現代的なアクションを取り入れていることが素晴らしい異化効果を生み出している。これもまた、ちぐはぐな映画という印象を与えるのかもしれない。

 私はこの映画メモでは基本的に新しい映画ばかりを取り上げているが、一番好きなのはこの時期(1940〜50年代)のハリウッド映画である。映画を集中的に見始めた中学生のころに気に入ったヒッチコックの『白い恐怖』(1945)がいまに至るまでも一番好きなヒッチコック映画で、イングリッド・バーグマンとグレゴリー・ペックのそれぞれの出演作の中でも一番だと思っている。もちろん私が見た時点でもすでにこれらは「クラシックス」であり、『白い恐怖』のスキーのシーンは1970年代末にあって笑止千万の特撮だし、演技も照明もカメラの動きも編集もそのすべてが古いのだけれども、映画ファンの初期の時期にこのような古いものを大量に見て楽しんだことは、私の映画鑑賞にいろいろな面で大きな影響を与えた。中学生のときのお気に入りをほかに挙げれば、ルネ・クレールの『奥様は魔女』(1942)、エルンスト・ルービッチュの『天国は待ってくれる』(1943)、フランク・キャプラの『群衆』(1941)、レオ・マッケリーの『めぐり逢い』(1957)、スタンリー・ドーネンの『踊る大紐育』(1949)など。同時代の面白い映画には『ウォリアーズ』(1979)、『ゾンビ』(1976)、『未知との遭遇』(1977)、『タクシードライバー』(1976)、『地獄の黙示録』(1979)などがあったが、どちらかと言えば古いハリウッド映画の方に夢中になっていた。

 「昔の映画は良かった」と言いたいわけではない。あれからアメリカ映画は大きく変わっており、変化の多くは好ましいものである。現代の映画に慣れている人には、本作のいくつかの要素はなじみのないもの、または古いものに感じられるだろうし、ハードコアな映画ファンを目指すのでない限り、これらの要素を楽しめるように自分の感性を無理矢理ねじまげる必要はない。ただ、私はそれらの要素になじみがあり、現代的な映画との違いを感知することができて興味深かった。

 たとえば本作はオランダのアムステルダムを舞台にしているが、運河をストーリー内で有効に活用しているものの、これがアムステルダムである必然性はない。監督のディック・マースはアムステルダムを、1940年代のハリウッド映画作家が外国を舞台にした映画を作るときのような感覚で見ている。オランダ人としてのアイデンティティが強い登場人物はおらず、ホテルの従業員や警官は、アメリカ人が海外に出かけたときに出くわす頑固でとんまな人々としてしか描かれていない。

 室内照明とカメラの構図は、リアリズム重視ではなく、クラシカルなハリウッド映画的な作りである。特にホテルの部屋に人が複数いるときの縦の構図は、最近のアメリカ映画には見られなくなったものだ。説話的な機能を持たされているカメラ移動とともに、本作の構図の作り方は、現代的な映画に慣れた人にはわざとらしく見えるかもしれない。

 キャラクター・デベロップメントがほとんどない。よく「昔の映画は人間をちゃんと描いていた」と言う人がいるが、少なくとも1950年代以前のアメリカ映画に関する限り、それは嘘である。リー・ストラスバーグのアクターズ・ステュディオが設立されたのは1950年のことであり、そのような「リアル」な演技が映画界で大きな力を持ち始めたのは1960年代に入ってからのことだ。それ以前の映画では、キャラクターの表現は(やるとしたら)古典演劇的な手法で行われた。そうでない場合は、ステレオティピカルな役柄をプロットの中に投げ込んで、その状況への反応をもって人間を描くという間接的な手段がとられた。本作の登場人物もいずれもステレオティピカルであり、何らかのセリフでもってその人物を深く描くというような試みはまったくない。ウィリアム・ハートは映画の終わりに、それまで忌避していた手話を学ぶ意欲を持ち始めるが、この部分は映画全体の中では非常に唐突に感じられる。それまでに、ウィリアム・ハートと娘との関係が深いレベルで描写されていないからである。

 ウィリアム・ハートとジェニファー・ティリーは、そういう古典的な雰囲気の映画に適応していた。まあ後者はもともとキム・ノヴァクを思い出させる時代錯誤的な人ではある。デニス・リアリーは現代的であるが、ちゃんとしている。子役のフランチェスカ・ブラウンは好演。『第一容疑者2』に端役で出演していたようだ。この人のクロースアップがあまりないことに注意。子供が重要な役割を果たす映画であるにもかかわらず、いかなる意味でも子役にコケティッシュな魅力を発散させようとはしていないのが面白い。

2002/2/27

IMDBの該当ページへ

検索ページへ 目次へ 前へ 次へ