渚にて

On the Beach

Stanley Kramer / Gregory Peck,Ava Gardner,Fred Astaire,Anthony Perkins,Donna Anderson / 1959

★★★★

「名作」ではある

 唐突だが、スタンリー・クレイマーの1959年の作品を、25年ぶりぐらいに再見した。リメイクの『エンド・オブ・ザ・ワールド』を見て★5つをつけたときから気になっていたので、この「冷戦下の名作」がどんなものだったのかを確認したかったという理由がある。

 こんなことを書くと石が飛んできそうだが、ラッセル・マルケイのリメイクの方が面白い。もちろん、本作は冷戦下での全面核戦争の恐怖を描いた社会派映画として長く記憶され、繰り返し新しい世代の観客によって見られることだろう。そしてラッセル・マルケイのリメイクは、オリジナルを冒涜する下らないTVミニシリーズとしてすぐに忘れ去られるだろう。

 もともと私は本作があまり好きでなかった。その理由はもっぱら役者陣にある。グレゴリー・ペックは大根だし、エヴァ・ガードナーはトウがたっていて怖いし、若手のアンソニー・パーキンスは木偶の坊。この印象は今回見ても変わらなかった(科学者を演じるフレッド・アステアが本当に素晴らしいことを確認できたのは収穫だった)。この役者陣の不自然さが、決して1959年という時代の制約によるものではないことは、スタンリー・クレイマーの前年の『手錠のまゝの脱獄』(1958)と翌年の『Inherit the Wind』(1960)を見ればわかると思う(ちなみに『手錠のまゝの脱獄』はアカデミー賞8部門ノミネートで、2部門受賞。『Inherit the Wind』は主演男優賞を含む3部門ノミネート。『渚にて』は音楽賞と編集賞というどうでもいいような部門でノミネートされただけに終わっている。この事実がかえって神話を強化した可能性はある)。

 私は、これは意図的な調整だったのではないかと推測していた。ロベール・ブレッソンばりの、素人による定型的な演技を通してのリアリティの醸成というやつだ。原作の小説もこの映画も、恐ろしい事態を抑制したタッチで描くことで恐怖を盛り上げるという正統的な手法を採用しており、それに沿った人選だったんじゃないかと思っていたのだが、今回再見してあまり確信がなくなった。

 今回再見して改めて思ったのは、「社会派映画」の時代的制約である。本作のような「冷戦下での社会派映画」は、どうしても主張しなくてはならないことがいろいろとあるわけだが、それらの主張が、冷戦が終わった現在の目から見ると非常に不自由に見えるのだ。これに時代の風潮や社会風俗の変化が加わって、本作のメッセージの多くは現在ではすでに妥当でなくなっている、または、ラッセル・マルケイのリメイクの方がより豊かなメッセージを伝えることに成功している。

 以下、リメイクの『エンド・オブ・ザ・ワールド』のネタバレになる。

 一番大きな変化は、女性の役割の拡大である。本作のエヴァ・ガードナーとドナ・アンダーソンは大きな仕事を遂行する男を待つ女でしかないが、リメイクでのレイチェル・ウォードとジャクリーン・マッケンジーはそれぞれにキャリアを持つ市民として、北半球で起こった核戦争の影響を直接に(男という緩衝剤なしに)受けている。この2人の映画中での役割を拡大することによって、全面核戦争という事態の深刻さが、より豊かに表現されている。もちろん『渚にて』は、その抑えたタッチが肯定的に評価されている作品ではあるのだが、今回再見してみて、それほどハードボイルドではないことを発見した。グレゴリー・ペック以外の主要登場人物たちは、物語の終盤になって、それぞれの役柄の範囲内で十分にエモーショナルである。

 ただし、『渚にて』がそのエモーショナルな行動の理由を細かく説明していないことは、戦略的な決定であろう。本作の登場人物たちが事件の前にどのような生活をしていたのか、事件によってその生活がどのように変わり、何を感じたのかは、間接的に述べられるだけである。その点で、『エンド・オブ・ザ・ワールド』は説明過剰といってもいいぐらいに、各キャラクターの人物造型を行っている。この違いは、おそらく時代背景の差から来ている。『渚にて』は全面核戦争の懸念が多くの人々に共有されている時代に作られたものであり、いまこの瞬間に日常的な生活の繰り返しが終了したときに人々がどのように感じるかを詳しく説明する必要がなかった。しかし『エンド・オブ・ザ・ワールド』は、全面核戦争が起こりうること、映画の中で実際に起こったことを観客に信じさせることから始めなくてはならなかったのだ。

 そのために、『エンド・オブ・ザ・ワールド』はオリジナルが意図的に回避したいくつかの描写をあえて行っている。たとえばアーマンド・アサンテは、謎の信号の出所を突き止めるために北アメリカ大陸に上陸したときに、『渚にて』があえて描かなかった家の中の様子を目撃する(これは表面上はオリジナルのクールさを欠いた過剰な描写に思えるかもしれないが、実は後になって伏線として強力に効いてくる)。また、謎の信号の正体についても、非常にわかりやすい、感情的な負荷のかかった説明が用意されている(これはテクノロジーの進歩を考えれば、仕方がない変更だったかもしれない)。

 しかし、私がオリジナルとリメイクの最も重要な違いと思うのは、これらの異なる戦略の背後にある、映画作家の基本姿勢である。社会派映画、告発映画としての『渚にて』は、観客に対して警告することを目的としているため、登場人物たちに自らの過去を悔いさせ、悔い改めさせなくてはならなかった。たとえばフレッド・アステアは、それまで自由に生きてこなかったことを悔いて、前からやりたかったカーレースに参加する。ドナ・アンダーソンは、それほど明示的に描かれてはいなかったものの、平凡な日常生活に十分な幸せを感じていなかったことを最後になって告白し、アンソニー・パーキンスの許しを求める。エヴァ・ガードナーは、フレッド・アステアを捨てたこと、その他の多くの男たちを蔑ろにしてきたことを後悔する。

 一方、『エンド・オブ・ザ・ワールド』の登場人物たちはこのような意味での後悔をほとんどしない。オリジナルにあった、「全面核戦争を契機として、それまでの罪深い生活に気づく」というニュアンスを意図的に除去するために、脚本の細かいところでいろいろと設定を変えているように見える。米ソの核兵器の対立という分かりやすい状況がなくなった現在、全面核戦争は「人間の愚かさ」みたいな倫理的なテーマとは直接に結び付かないので、道徳話が作れないのである。というよりも、そういう道徳話は作れるし、現実にそれを語る終末映画は数多いが、この『エンド・オブ・ザ・ワールド』は驚くほどこのパターンから自由である。その結果、『エンド・オブ・ザ・ワールド』は見方によっては冒涜的な、また私の見方では魅力的な性質を新たに獲得することになった。

 全面核戦争は、「強力な悪としての人間の愚かさ」というよりも、「あーあ、ついにやっちゃった」という感じになる。だから、この事件は人々の悔い改めの契機にはならず、「やりたかったのにやらなかったこと」の後悔も生じない。個々の人は日常生活の中での後悔を、そのままポスト全面核戦争の日々に持ち込むだけである。そして、映画の焦点は、これほどまでにも素晴らしい日常生活が終わることの哀しみに当てられる。

 ひたすらシリアスな『渚にて』が、潜水艦艦長がやたら軽くなり、ロマンティック・コメディの要素すら入ってしまった『エンド・オブ・ザ・ワールド』としてリメイクされたことに対する反感はとうぜんながら生じるだろう。しかし私は、「地獄の説教」をあえて避け、愛についてポジティブに語ることで全面核戦争の恐怖を語るというアプローチをとったリメイクを断固として支持する。

2002/10/16

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